長老からの無言催促を受けたスープの番人が、「そろそろ、宴をはじめようじゃないか」とみんなに呼びかけた。それから、にゃんごろーに改めて、宴開始の音頭を取ってほしいと依頼した。
「は、はい!」
にゃんごろーは、元気のよいお返事と共に、ミルゥのお膝の上から飛び降りた。みんなの注目を一身に浴びながら、一歩前へと進み出る。
みんなは、「頑張れー」と声援を送り、パチパチと拍手をした。
にゃんごろーは、気恥ずかしさを感じつつも、誇らしそうに胸を反らして、それに答える。
潮風が、白いおひげを揺らしていった。
まだ子ネコーのにゃんごろーは、立ち上がっても、座っている人間たちと同じくらいか、それよりも小さい。もふもふとしなやかで、まろみのある体を見つめる人間たちは、みんな口元を緩ませていた。炊き出し班も、救援班も、ここにいる者たちはみんな、無類のネコー好きばかりなのだ。
中でも、取り分け緩み切った顔をしているのが、ミルゥだった。
三角お耳がちょこんとのっかっている、小さくて、まあるい頭に、熱のこもった眼差しを注ぎまくっている。穴が空くでも、焦げ付きそう、でもなく、ドロドロに溶かしてしまいそうな熱が、小さな後ろ頭に注がれている。
にゃんごろーは、注目を浴びていることには気づいていても、その中の一つに過剰な熱が込められていることには、気づいていないようだ。子ネコーは、誇らしさの中に少しの緊張を覗かせて、両方のお手々を胸の前で広げた。「いただきます」の準備だ。
にゃんごろーの前に並んでいる、おとなネコーたちと救護班の面々も、にゃんごろーに倣って、手を広げた。考え事をしていたルシアも、ハミルに肘で脇を突かれて、心ここにあらず状態のままではあるが、遅れてお手々の準備を整える。
何も言わなくても、みんなが協力してくれたことが嬉しくて、にゃんごろーは照れくささを滲ませながら「にゃふん」と笑った。
後ろを振り返らなくても、背後のミルゥと炊き出し班のみんなも同じようにしてくれていると、素直な子ネコーは何の疑問もなく信じていた。
にゃんごろーは、勝手に緩んでくるお口を、必死に引き締める。
もふ毛の内側を、緊張と高揚が駆け巡る。
とても、晴れがましい気分だった。
海からの風が、また、子ネコーのおひげを揺らしていった。
白いおひげは、オレンジの光を照り返している。
東の空は、まだ明るさを残していた。けれど、砂浜の向こう。大陸の西に張り出したピルム半島の砂浜の向こう側。空と海が交わるところは、今日と明日の境界の色に染まりつつあった。その光を照り返す、おひげのキラキラは、子ネコーの喜びにあふれる胸の内の表れのようでもあった。
おやすみ間際の落ち着いた陽光が、ほわ毛の隙間を通り抜けていく。子ネコーそのものが、輝いているようにも見えた。
人間たちは、「ほぅ」とため息を漏らしながら、優しい光の申し子のような子ネコーに見惚れた。
長老とハミルは、見知らぬ人間たちの囲まれながらも、臆することなく大役を果たそうとしている子ネコーを感慨深く見守っていた。
にゃんごろーのお目目が、真正面から見つめて来る、長老を捉えた。お目目とお目目が合わさる。にゃんごろーのお口が、ムズムズと蠢いて、それから、キュッと引き締まった。
にゃんごろーは、クッとお顔を上げて、お口を大きく開いた。
「しょ、しょれれは、みにゃしゃん…………」
舌足らずに聞こえる、子ネコーの愛らしい声が、高らかに響き渡り、空に溶け込んでいく。
みんな、耳を澄ませて続きを待った。
「おてちぇのー、にくきゅーと、にくきゅーを、あわしぇちぇー」
肉球を持たない人間の内、数人が堪えきれずに小さく吹き出し、残りは腹と顔に力を込めて何とか耐えた。
幸いにも、にゃんごろーは、それに気が付かなかった。
子ネコーの瞳は、長老だけに注がれていたからだ。ミルゥのお膝の上で構われていた時は、うっかり忘れていたけれど、にゃんごろーにとって、やっぱり長老は特別なのだ。
白くてもふぁもふぁのお顔を見れば、長老も、にゃんごろーの晴れ舞台を誇らしく思ってくれていることが分かる。それが、嬉しかった。
長老に褒めてもらうのが、一番嬉しいのだ。
長老に認めてもらえるのが、一番誇らしいのだ。
長老に頼まれたお使いを、ちゃんと頑張ってよかったと思った。最後までひとりで、とはいかなかったけれど、勇気を出してよかったと思った。
長老を助けるために、安全なネコーの住処から、危険な森へと一歩を踏み出したその勇気を、長老はちゃんと認めてくれているのだ。
にゃんごろーは長老と見つめ合ったまま、お手々の肉球と肉球をポムッと合わせた。
にゃんごろーに続いて、肉球があるものも、ないものも、それぞれ持ち前の手を合わせる。
子ネコーの可愛らしい声が、元気よく轟いた。
「いったらっきみゃ!」
唱和の途中で、何人かが吹き出した。堪えていた残りの面々も、釣られて笑い出す。
大役を果たした途端、微笑ましい一幕を演じていた子ネコーは、長老から、長老の前に置かれているスープカップへと視線を落とし、ジュルと涎を啜り上げたのだ。相方である長老が、子ネコーと同じタイミングでカップに視線を向け、キュルとお腹を鳴らしたのも、さらなる笑いを誘った。
にゃんごろーは笑われていることに気づかないまま、「さて」とばかりにクルリと体を半回転させ、自分のスープを目で探す。
カップは、横座りしているミルゥの足の前、左右両脇に一つずつ置かれていた。配られた時は、にゃんごろーを膝にのせたミルゥの真ん前に、二つ並んで置かれていたのだけれど、にゃんごろーが音頭を取るために立ち上がった時に、ミルゥが脇に避難させたのだ。
にゃんごろーは、どちらが自分のスープなのか、と左右のカップの間で、お顔ごとキョロキョロした。ミルゥが、笑いを堪えながら、ポンポンと自分の太ももを叩いた。にゃんごろーは、ほわっとお顔を綻ばせ、いそいそとミルゥの足の上に腰掛けた。そのタイミングで、ミルゥは右のカップを取り上げて、にゃんごろーの前に差し出した。にゃんごろーは、ほわほわのお顔で嬉しそうにカップを受け取る。
小さなお手々の間に挟んだカップの中を覗き込むと、にゃんごろーは、「ふぅ」と息を吹きかけた。甘くてクリーミィな香りの湯気が、仄かに立ち昇る。
「うーみゅ。あちゅくないかにゃー?」
「大丈夫じゃ。ちょうどいい案配に冷めておるわい。にゃんごろーが、そのまま飲んでも平気じゃぞ?」
「ん、ちょーろー?」
「お疲れ様じゃ、にゃんごろー。よく頑張ったな」
「う、うん! ちょーろーも、らんらっちゃ! おちゅかれしゃま!」
向かいから長老に声をかけられて、にゃんごろーはお顔を上げた。
長老に頑張りを労われて、ぱわっと笑顔になる。
にゃんごろーからも長老を労う言葉を返して、ふたりで笑い合った。
食い意地を優先したり、ほのぼの触れ合いを優先したりと、ふたりは忙しい。
「にゃんごろーよ、乾杯じゃ」
「……………………! うん!」
長老が、にゃんごろーに向かって差し出すようにスープカップを持ち上げた。
頑張ったご褒美に美味しいもので乾杯の約束を思い出して、子ネコーはお目目を輝かせる。
それは、美味しいものを、より美味しくするための儀式だ。
アチチを恐れたスープが、すでに飲み頃だというならば、儀式なんてさておいて、さっそく味わいたいという食いしん坊心を押さえて、にゃんごろーは長老の真似をしてカップを持ち上げた。
にゃんごろーは食いしん坊な子ネコーだが、美味しいものをより一層美味しくするための一手間ならば惜しまない、長老と違って「待て」が出来る食いしん坊子ネコーなのだ。
長老だって、にゃんごろーと乾杯するのを待っていてくれたのでは、と思うかもしれないが、それは大きな間違いだ。
だって、長老は自分のスープはとっくに飲み干していて、今、乾杯しようと掲げているのは、二杯目のコーンスープなのだ。「待て」が出来ない長老は、「いただきます」が済むなり、速攻でスープを飲み干していた。飲み干して、満足げな溜息を吐いた後、長老は「そういえば、にゃんごろーと乾杯するのを忘れておったのう」と呟いた。それを聞きつけた、隣に座る救援班の人間が、手つかずカップと空っぽカップを交換してくれたのだ。
つまり、長老が今、がっついたりせずに余裕のお顔でカップを掲げているのは、一度満足した後の、おかわりでの乾杯だからなのだ。長老は、にゃんごろーと違って「待て」が出来ないネコーなのだ。
にゃんごろーがそれを知ったら、「ちょうろう、ズルイ!」と怒りだして、儀式が台無しになるところだったが、食い意地に従いつつもミルゥとほっこりしていたおかげで、長老のフライングには気がつかずに済んだ。
目撃者たちも余計なことは言わず口を噤んだため、儀式は円滑に、円満に進んでいった。
「乾杯!」
「きゃんぴゃい!」
掛け声と当時にカップを高く掲げた後、ふたりは同時にお口をつけた。
にゃんごろーは慎重な手つきで、カップを傾ける。
お口の中に、トロリとした温かい液体が流れ込んできた。温めたミルクの安心するような優しい味わい。それから、果物でも蜂蜜でもお砂糖でもない、仄かなようでいて力強い甘さが舌の上に広がる。
これが、長老が一等好きな、人間のお料理のお味なのだ。
ゆっくりと味わってから、喉の奥へと、ごっくんする。
「うぅぅううううむ…………! 美味い! 長老は、これが一等、好きじゃぁああああ!!」
「うぅうううううん…………! おいしぃいぃいぃぃ! いっちょうきゃは、まら、わきゃんにゃいけろ! にゃんごろーも、これ、しゅきぃいいいいいいい!!!」
にゃんごろーと長老は、カップを大事に抱えたまま、ぷるぷると体を震わせて歓喜の雄叫びを上げた。人生ならぬネコー生で初めてコーンスープを飲んだにゃんごろーは兎も角として、二杯目の長老も、本日最初の一杯のような感激ぶりだ。フライングを隠そうと演技をしているわけではなく、素で感激しているため、にゃんごろーは長老の抜け駆けに気づかないまま、初めてのお味に酔いしれた。
子ネコー的にお手伝いをやり遂げた充足感も相まって、それは格別の美味しさだった。
お船には、まだまだ美味しいものが眠っているのかもしれないし、一等好きかどうかはまだ決められないけれど、コーンスープはにゃんごろーにとって、特別なお料理になった。
口の中に残っている余韻を楽しみ、口の周りについたスープを舐めとってから、にゃんごろーは、胸を高鳴らせてカップの中のスープを見下ろす。スープは、黄金色に輝いて見えた。
ゴクリ、と喉を鳴らす。
このまま一気に駆け抜けてしまいたい衝動を、にゃんごろーは堪えた。筋金入りの食いしん坊だからこそ、一気に飲み干したりはしないのだ。
子ネコーはキリリと真面目なお顔で、スープをじっくりと味わい尽くすためのペース配分を考えていた。
そして、真剣な脳内会議の結果、ついに方針が固まる。
にゃんごろーは、じっとカップを見下ろしながら、決定したばかりの方針を頭の中で反芻した。
まず、さっきよりは少し多めの一口を含み、ゆっくりと味わう。それから、半分ほどをごくごくと飲み下し、喉越しを楽しむ。全部を一気に飲み干すのはもったいないけれど、食いしん坊子ネコーとして、ごくごく飲みも味わってみたいのだ。
残りをどうするのかは、両方を味わってから、もう一度考え直すつもりだった。
この一杯を、とことんまで楽しみぬくつもりなのだ。
スープの味そのものを楽しむのならば、ゆっくり一口ずつ味わうべきだろう。けれど、ごくごくと飲み干していくのには、それとは違う満足感があるはずだった。本ネコーだけが認めていない、食いしん坊心が満たされまくる気がする。それに、ごくごく飲みには、ご褒美の乾杯感がある。今、この瞬間の飲み方に、とても相応しい気がする。しかし――――。
にゃんごろーは、ここで、計画に修正を加えることにした。
最初の二口を、じっくりと味わい尽くし、それから、残りを――――。
心の中で乾杯を叫び、頑張った自分と長老を褒め称えながら、一気に飲み干すのだ。
(きゃ、きゃんぺき!)
作戦のあまりの完璧さに、子ネコーは全身のもふ毛を震わせた。
ペロリとお口の周りを嘗め回し、「うん」と大きく頷いてから、にゃんごろーは計画を実行に移した。
まずは二口、ゆっくりじっくりたっぷりと味わう。
名残惜しみながら二口目を飲み下し、お口の周りまでちゃんと嘗めとってから、にゃんごろーは、カップを頭上に掲げた。
真っ白だったカップが、濃いオレンジ色に染まる。
一日を頑張ったお日様が、いよいよ、おやすみなさいを告げようとしているのだ。
カップを染めるオレンジは、頑張ったお日様からのお裾分だ。おひさまの計らいで、カップの中のスープが、より一層、美味しくなった気がした。お日様には、そんな不思議な力があると、にゃんごろーは常日頃から思っている。
「きゃんぱい」
お日様色に染まったカップを惚れ惚れと見上げながら、お口の中で小さく呟く。
今日を頑張ったお日様と、にゃんごろーと、長老と、助けてくれたみんなと。
心の中でみんなを称え、労って。
子ネコーは、ゴクリ、ゴクリと喉を鳴らして、お日様のコーンスープを飲んでいたが、途中でプハァとお顔を上げた。
「んんー! ギョクギョクしゅるのも、しゅちぇきらけろ、やっぴゃり、やっぴゃり! きょんにゃに、おいしぃみょものを、いっきにのんりゃうのは、もっちゃいにゃい! にょこりは、ゆっくり、しっきゃり、ありわっちぇ、のみょう!」
「うむ。気に入ったようじゃの。思った通りじゃわい」
完璧だったはずの計画を撤回し、「残りは一口ずつ味わって飲むぞ!」宣言をする子ネコー。
二杯目のスープもしっかりとお腹に収めた長老は、そんな子ネコーを見つめて、満足そうなお顔でホコホコと笑った。