これは、カムラとアミュリタのすれ違いの前日の夜の話。
村にはいつになく華やかな飾りが施され、色とりどりの旗や布が風にたなびいていた。
バラモンや貴族の人々が高貴な衣をまとい、香を焚きながら歩を進めるその様は、まるで別の国の祭典のようだった。
アミュリタは両親の後ろを小さく歩いていた。深紅のサリーに金の飾りが揺れ、けれどその美しさとは裏腹に、彼女の胸は重く沈んでいた。
「……息が詰まる」
誰とも目を合わせないようにしながら、アミュリタは木陰に足を向けた。
だが、背後から酔った声が響く。
「おや、バラモンの姫様が、こんなところで何をしてるのかな?」
若い男の視線が舐めるように彼女の全身を追い、近づいてくる。
「お名前を伺っても……いや、もう知ってるよ、アミュリタ様」
アミュリタの肩が震えた。
声を出そうとしても、喉が張りついて何も出てこない。
父や母の姿は人垣の向こう。
逃げ道はなかった。
「やめてください……」
それは羽のようにか細い声。
男は笑みを深め、手を伸ばそうとした――そのときだった。
バッ、と人垣を割って現れたのは、顔を布で覆った幼い少女だった。
その動きはためらいなく、一直線に男の懐へ踏み込み、
「離れろ、クズ」
低く唸るような声と共に、強烈な蹴りが男の股間を打った。
男が悲鳴を上げて倒れ込むより早く、その少女はアミュリタの手を引いた。
「ついてこい、アミュリタ!」
「カムラ……ちゃん?」
混乱の中、アミュリタはその名を呼んでいた。いつもの土色の布、傷のついた腕、そしてなにより、手を握る力強さ。間違えようもない。
人々の驚きの声が遠ざかる中、二人は露店と人混みをかすめ、裏道を駆けた。
そして、小さな神殿の陰にたどり着いたとき、アミュリタはようやく呼吸を取り戻す。
「カムラちゃん……、なんで……?」
カムラは布を外し、ぽんと頭をかいた。
「見てたんだ。アミュリタが変なやつに絡まれてたから、黙ってらんなかった」
「でも、あなた……出てはいけない場所だったんでしょう?」
「知ってるよ。でも……アミュリタが怖がってる顔なんて、二度と見たくなかった」
アミュリタの目から、ぽろりと涙が零れた。
「……ありがとう、カムラちゃん……」
「いいって。……アミュリタが無事なら、それでいい」
その言葉には、不思議なほどの静けさが宿っていた。
下層民である彼女が、上位階級の少女を助け、共に逃げてきたという事実。
二人を引き裂く社会の壁は、確かにそこにあった。
けれど、今だけは、それを忘れさせるぬくもりが、手のひらを通して伝わっていた。