翌朝、まだ冬の太陽が山の端から顔を出し切る前の時間。
冷えた空気の中、陽翔は
{昨日は勝手に帰ってしまって心配をかけてすみません。一ばん、ありがとうございました}
そう書き置きを残して、陽翔は再び自宅へと向かった。
自宅——。
不思議なことに、自宅の玄関のドアに鍵はかかっていなかった。
陽翔は自分のキッズケータイで時間をみる。
(今は確か、パパが会社に行く時間だ。
玄関の鍵かかって無いし、パパはまだ家の中にいるのかな?)
陽翔は玄関から入り、リビングでふと足を止める。
リビングは静かだった。
テレビもついていない。なのに……、
誰かの気配があった。
「……パパ!?」
陽翔が玄関に戻ると、玄関の扉がガチャリと開いた。
ボクは恐る恐るドアの小さな窓から外を覗く。
すると、スーツ姿のまま父が玄関前で立っていた。
ネクタイはゆるくほどかれ、コーヒーの缶を片手にぼんやり空を見つめている。
「パパ、なんで……まだ、いるの?」
陽翔の声は、ひどく小さかった。
父は驚いたように振り返り、そして……少し苦笑した。
「仕事か?休んだ。いやな、昨日は一睡も出来なくて、朝までずっと考えていたんだ。
陽翔、お前の話を、ちゃんと聞いてあげられなかったって……」
陽翔は足を止めたまま、父の顔を見上げる。
父の表情には昨夜とはまるで違う色があった。怒りでも苛立ちでもない。
ただ、戸惑いと、悔い、そして――少しだけ、照れたようなやさしさ。
「昨日は……パパも言いすぎた。
怒鳴るつもりじゃなかったんだ。ごめんな」
ぽつんと、謝罪の言葉が落ちた。
陽翔の胸の中に、不意に温かいものが広がる。
事あるごとに仕事仕事と、なかやか自分に目を向けてくれなかった父が、謝ってくれるなんて思っていなかった。
でも同時に、喉の奥がきゅっと詰まる。
「……ボクね、いっぱい我慢してた。
パパ一人でボクの為に毎日仕事や家の事を頑張ってくれてるから。
ボクもパパに迷惑かけないように頑張らなきゃって……。
そういつも強がってたのに、ダサいよね。あんなふうに泣いて」
「いいんだ。むしろ、泣けてよかった」
父の目頭からは、自然と涙が流れ出ていた。
父はしゃがみ込み、陽翔の目線と同じ高さで微笑む。
「お前は、ちゃんと"自分の気持ち"を伝えた。それって簡単なことじゃない。
パパは……ずっと、お前の"本音"に気づこうとしてなかった。
だから、やっとわかったんだ」
陽翔の目に、涙が再びにじむ。
「でもさ……逃げたくなっちゃうんだよ。
ここにいたら、みんながボクに優しくしてくれるし。
誰も変だって言わないし……」
「うん、そうだな。きっとこの町は、お前を包んでくれる。でも――」
父は陽翔の肩に、そっと手を置いた。
「逃げるためじゃなく、進むために"優しさ"があるなら、そこは本物の居場所だと思う。
でも、そこに"閉じこもる"んじゃなくて……」
陽翔の目を、じっと見据える。
「お前にはちゃんと、"こっちの世界"にも繋がっていておいて欲しい。
パパはそれを手伝いたい。
だから、もう一歩、踏み出してみないか?」
風がやさしく吹いた。
陽翔の頬をなでるように、窓の外から朝の光が差し込んでくる。
それはまるで、暗闇のなかの灯火のようだった。
陽翔は少しだけ顔を上げ、真っ直ぐに父を見た。
「……うん。ボク、逃げてばっかだったかも。でも、勇気を出して少しだけ……踏み出してみたい」
それを聞いて、父の顔がやわらかくほころぶ。
「よく言えたな、偉いぞ。
それでこそパパの息子陽翔だ」
父はその大きくがっしりした手で陽翔の頭をワシャワシャと撫でた。
そしてふたりは、黙って空を見上げた。
雲の切れ間から、希望のような光が一筋、地上に降り注いでいた。