目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第39話 真逆の言葉

 定時になったので帰ろうと思い、席を立った時だった。

「田村、ちょっとこっち来い」

 主任の灰塚さんに手招きされ、オレは少し緊張しつつそちらへ向かった。何かやらかしたかな、オレ。

 できるだけ表情には出さないようにして「何ですか?」と、灰塚さんの前に立つ。

 灰塚さんはにかっと笑うと、明るく言った。

「消去数累計千五百突破、おめでとう」

 左から右からクラッカーが鳴らされて、オレはびくっと肩をすくめてしまった。

 見れば、みんながオレを笑顔で見ている。そういえば、前にもこんなことあったな。あの時は千だったから、あれからさらに五百も消去したらしい。

「おめでとう、田村くん。初期からやってる私たちでも、なかなか千五百はいかないわ」

 と、B班の班長である舞原さんが言い、隣で麦嶋さんも口を開く。

「あたしなんてまだ五百もいってないんだから、田村は本当にすごいよ」

 面と向かって褒められると恥ずかしくて伏し目がちになる。

「これからも頼りにしてるよ、田村くん」

 と、三柴さんまでにこにこと笑いながら言う。オレはただ、楽しくてやっているだけなのだけれど。

「まったく、こういう時くらい素直に喜べよな」

 樋上さんに言われて、オレはますます反応に困ってしまった。素直に喜びたいけど、どうしても恥ずかしさが上回ってしまうのだ。

「無理はしなくていいよ、田村くん。おめでとうって言われて、嬉しくない人なんていないんだし」

 優しく深瀬さんが言ってくれてほっとした。

「名実ともに、あんたはうちのエースよ。これからも頑張りなさいね」

 と、土屋さんも穏やかに笑ってくれて、オレは照れくさくなりながらうなずいた。

「はい、ありがとうございます。頑張ります」

 上司が灰塚さんでよかった。仲間たちがみんなでよかった。

 そう思って、オレは少しだけ笑った。


「よかったな、楓。おめでとう」

 いつものように二人でオフィスを出た後、航太がそう言ってくれた。

 オレは口元がにやけるのをそのままにして返す。

「おう」

 千五百も虚構の住人を消したなんて、まったく意識していなかったから自分でもびっくりだ。

「ランキングがあったら、きっとお前が一位なんだろうけどな。ちょっと残念だ」

「別にいいよ。みんなに祝ってもらえるだけで嬉しいし」

 心の中はまだほかほかとしていて温かく、夏の不快な暑さが気にならないくらいだ。

「やっぱり、楓は向いてるよな」

 ふいに航太が言い、オレは彼の方を見る。

「向いてるって何が?」

「だから『幕引き人』に、だよ」

 はっとして心臓が鋭く痛む。いつか真逆の言葉を航太にかけたことが脳裏をよぎった。

 航太はいつもと変わらない、穏やかな顔で言う。

「前にも話したが、楓にはもっといろんなことを知って、広い世界に出てほしいって思ってた。けど、今のままでもいいのかもしれない」

「……」

「決めるのは楓だし、僕がどうこう言ったところでどうしようもない。でも、楓の幸せがここにいることなら、それでいいのかもしれないと気づいたんだ」

 オレは今のままでいいし、今のままがいい。優しいみんなに囲まれて、楽しく仕事をしていきたい。

「だからもう、僕は何も言わない。楓のしたいようにしてくれ」

「分かった」

 でもオレは、航太のしたいようにしてくれとは返せなかった。

 微妙に気持ちがすれ違っていることには気づいたけれど、どうすれば修復できるのか分からなくて、ただオレは航太の手にぎこちなく触れた。

 航太はすぐにオレの手を握ってくれたが、すれ違っている感覚はどうしてもぬぐえなかった。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?