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第53話 途中の暗闇・後編

 航太はオレの鞄を持って迎えに来てくれた。

 一時間ほど眠ったおかげか、自力で体を起こせる程度には回復していた。

「まだちょっと気持ち悪いけど、さっきよりはマシになった」

「それならいいが、部屋まで送るよ」

「うん、ありがとう」

 ゆっくりとベッドを下り、あらためて産業医へお礼を言う。

「ありがとうございました」

「お世話になりました」

 と、オレも頭を下げた。

 産業医はにこやかな顔で言う。

「いえいえ。まだ無理はしないようにしてくださいね。あと、何か食べると吐いちゃうことがあるので、気をつけてください」

 言われなくても食欲がないため、今日は何も食べる気がしなかった。


 廊下をゆっくりと歩きながらオレはため息をついた。

「まさか、マーキングが切れるなんてな」

「ああ、僕も驚いた。とっさにつなぎ直したんだが、楓の意識が虚構世界に置き去りにされるんじゃないかって、気が気じゃなかったよ」

 苦笑いをしながら航太が言い、オレも苦い顔をする。

「オレは何が起きたか、ちっとも分かんなかった。いきなり目の前が真っ暗になったんだぜ」

「怖かっただろう?」

「そっちこそ」

 二人して曖昧に笑い、それぞれに息をつく。

 エレベーターの前まで来て、航太がボタンを押す。

「考えてみれば、虚構世界には意識だけを飛ばしてるんだよな」

 開いた扉の向こうへ進み、後から航太が入って来て扉を閉めた。

「夢の中へ入る技術を応用してるから、接続が戻っても不安定になって当然なんだ。中途半端に目覚めたようなものだからな」

「ああ、たしかに」

 言われてみれば、あの暗闇は夢から目覚める途中の暗闇と似ていた。

「強制的に睡眠状態になってるわけだから、体がついてこないのも当然だ。だから気持ち悪くなったんだろう」

「うん、そういう感じだった」

「とにかく、大事がなくてよかった。今日は何もしないで、すぐに休んだ方がいいな」

「うん」

 少しのどが渇いたから、部屋に帰ったら水でも飲もう。それと……。

「少し、甘えてもいいか?」

「え?」

 航太の方へ距離を詰め、オレは至近距離で航太を見つめた。

 想定外だったらしく、めずらしく航太はどぎまぎとしている。かまわずにオレは言った。

「ぎゅってしてほしい」

 戸惑う航太だったが、すぐにはっとしてオレを抱きしめてくれた。

「これでいいか?」

「うん。ちょっと元気出た」

 やっぱりハグされると精神的に安心する。体の不調も少しだけマシになった気がした。

 直後、エレベーターが一階に到着し、オレたちは慌てて離れた。

 誰にも見られてはいなかったが、航太の頬がわずかに赤く染まっていた。

 エレベーターを出て、オレたちは互いに無言のまま玄関へ向かう。外へ出たところで、オレは航太の手を握った。

 めずらしく航太はびくっとし、どこかぎこちなく握り返してくる。

「……弱ってる楓は、甘えん坊だな」

 小声でぼそりとつぶやく航太だが、オレは聞こえなかった振りをした。こんな時くらいしか、オレは素直に甘えられないのだった。

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