目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

☆第70話 彼の心を乱すようなこと

 すべての人が幸せになることなどありえない。人と呼べるものは宇宙にもたくさんいて、彼らを含めたらとてつもない数になる。

 そのすべてを幸せにすることが僕にできるはずもない。だからせめて、身近な人たちだけでも幸せになってほしいと願うのは、傲慢だろうか。

「樋上さんは、本当にこのままでいいんだろうか」

 食堂で冷やし担々麺を食べながら、僕はぽつりとつぶやいた。

 向かいでジャージャー麺を食べていた楓が返す。

「さあな」

 僕は少し迷ってから言う。

「僕はよくないと思う。誰だって、好きな人と結ばれたいはずだ」

 楓はちらりとこちらを見ると、鼻で笑った。

「樋上さんに怒られるぞ」

「……そうだな」

 でも、彼がこのままで幸せになれるとは思えない。それが僕は気がかりだった。

「っつーか、考えてみたら土屋さんは樋上さんのこと、何とも思ってないかもしれねぇよな。仮に告白されたとしても、喜ぶとは限らない」

「そうだな、軽率けいそつだった。今のは聞かなかったことにしてくれ」

 僕はそう言ってため息をついた。

 楓は「ああ」とだけ返し、黙って食事を進める。

 どうしたらいいか、僕はずっと迷っている。楓を巻き込むわけには行かないから、本当のことを口にできない。

 どうするのが最善なのか、僕には分からない。日南さんに協力したことで得た真実は、あまりにも残酷すぎた。

 どうすれば前へ進むことができるのだろう。できれば一人でも多くの人を救いたい。犠牲者は二人もいらない。

 でも、でも、でも……。


「お疲れっしたー」

 定時後、さっさと帰ろうとする楓を引き留めようとして、思わず後ろから抱きしめた。

「えっ、航太!?」

 動揺する楓の声ではっとして、僕はすぐに腕を離す。

「ご、ごめん」

「何だよ……どうかしたか?」

 振り返った楓が心配そうに僕を見上げる。どうやら僕は弱っているらしい。

「いや、引き留めようとしたんだけど声が出なかった」

「はあ? それで?」

「……一緒に帰ろう」

「それだけかよ」

 呆れたように楓は笑い、「行こうぜ」と歩き出す。

 僕はその隣に並べることに安堵した。忘れずに「お疲れさまでした」と他の人たちへ挨拶をし、楓とともに廊下へ出る。

「今日も日南と会うのか?」

「いや、今日は約束してないよ」

「ふーん」

 そもそも、僕はまだ彼へ伝えるべき答えを出せていない。

 うつむき加減になる僕と裏腹に、楓が明るい調子で話し出す。

「地図アプリ、やっと完成したんだ。今日は動作確認してデバッグする」

「そうか。順調みたいだな」

「それと画面の液晶をやめて、有機ELにしたんだ。こっちのが極薄で紙っぽいかなと思って」

「ああ、それがいいな。サイズは?」

「六インチだから、昔のスマホくらいだな」

「わりと小さいな」

「持ち運びを考えると、どうしてもそれくらいになっちまうんだ」

「なるほど」

 楓はいつも通りだった。でも、少し気を遣われているような気もして、部屋へ来ないかと誘うのははばかられた。

 僕が一番に幸せであってほしいと願うのは楓だ。無駄に迷惑や心配をかけたくない。

 彼の心を乱すようなことを、僕は極力したくなかった。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?