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第115話 大切に思う心

 土曜日の朝。また三連休かよと思いつつ、一週間分の洗濯物を共有の洗濯機に放り込んでいる時だった。

「よう、田村」

 後ろから声をかけられて振り向けば樋上さんだ。

「おはようございます」

 と、オレが返すと彼は隣の洗濯機を開けながら言う。

「今日、時間あるか?」

「ないっす。午後から航太のところに行くんで」

「ああ、毎週泊まってるんだったか」

「ええ、ほぼ毎週」

 樋上さんはため息をつき、オレはかまわずに洗剤を投入する。

「ちょっとだけ愚痴ぐちに付き合え」

「愚痴って何すか?」

 そもそも独身寮で樋上さんに話しかけられるのは初めてだ。

 苦い顔をするオレだったが、樋上さんは言った。

「土屋のことだ。彼女が殺人犯だってこと、知ってたか?」

「……知ってるわけないすよ」

 ボタンを押して洗濯機を作動させる。乾燥までやるから終わるには時間がかかる。

「……だよな」

 樋上さんはため息まじりに言いながら、洗濯機に洗剤を入れる。

「どうしようもねぇのは分かってるけど、ショックがでかい。局長が隠蔽に加担してたことまで含めて、な」

 自嘲気味に笑う樋上さんを見て、オレは何も言葉をかけられなかった。……本当に、どうしようもないことだった。

「なぁ、田村」

「何すか」

「もし、千葉が殺人犯だったらどうする? お前、すぐに割り切れるか?」

 樋上さんの前にある洗濯機がゆっくりと動き出し、オレはどこも見られずに立ち尽くす。

 想像力を働かせる前に、自分が土屋さんの側であることが嫌でも思い出されてしまう。

「……無理っすね」

 それだけ返して、オレは空になったカゴを手に取った。

「失礼します」

 と、樋上さんの後ろを通って、足早に部屋へと戻る。

 彼には申し訳無いけれど、これ以上話をするのは辛かった。本当のことを話してしまいそうで、弱い自分をさらけ出してしまいそうで、怖かった。


 昔、親父が話してくれたことがある。

「人間に感情があるのは、社会的な結びつきを強めるためなんだ」

 ガキだったオレはよく分からなくて首をかしげたが、親父は優しく笑って言った。

「僕たちを生み出してくれた神様がね、人間に善悪の判断をする自由を与えてくださったんだ。そのためにあるのが感情であり、言い換えれば知恵なんだよ」

 ああ、なんてめんどくさいんだ。感情なんてものがなければ、こんなに悲しい気持ちにはならなかったのに。

 感情なんてものがなければ、樋上さんを悩ませることだってなかったのに。

 感情なんてものがなければ……。

「いいかい、楓。自分の内側からわき上がる感情にはいろいろあるけれど、中でも忘れてはいけないものが愛だよ。誰かを愛し、大切に思う心だ」

 ああ、感情がなかったら、オレは航太と結ばれることはなかった。

「いつか愛する人ができた時、きっと分かるようになるよ。だから楓、感情に逆らったり、押し込めたりすることがないように、素直に生きなさい」

 ごめんなさい、樋上さん。

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