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そろばんと恋心

「願いましては・・・・・・」


 わたしはそろばん塾の講師をしている。電卓が普及した今、そろばんなど必要なのかという声が聞こえてきそうだ。しかもスマートフォンにも電卓ソフトが標準で入っている時代である。


 しかしそろばんは頭も使えば、指も使う。頭脳を活性化させるには最適な道具なのだ。

 わたしぐらいになると、頭の中にいつもそろばんが浮かんでいる。


「先生いまお帰りですか?」


 そのとき声を掛けてきたのは、マンションの隣人、沢口美加子さわぐちみかこであった。夕暮れの街の明かりが、美加子の美しい白い顔を浮き上がらせていた。


「ええ。授業が終わりましたので」


「塾の生徒さん、多いんですか?」


「ええまあ」


 実際のところはそんなに多くはないのだが、ちょっと見栄を張ってしまった。


「沢口さんはたしか病院にお勤めなんでしたよね?」


 わたしたちは自然に駅に向かって一緒に歩いていた。


「ええ」


「看護婦さんなんですか?」


「いいえ。こう見えてもわたし女医なんですのよ」


「失敗しない女医さんですか」


「まさか。ふふ」美加子はふだん知的に見えるが、笑うと可愛い顔になる。「あ、そうだ。昨日シチューを作り過ぎちゃったんです。これから家に食べに来ません?」


「え、いいんですか?」


 ラッキーである。美人の手料理が食べられるなんて、何年ぶりだろう。


 とその時、わたしの視界にはあるモノが映りこんでいた。赤ちょうちん。そこには“やきとり”と書いてあった。わたしの足は条件反射のようにそこで立ち止まってしまった。


「あの・・・・・・沢口さん。ぼくはちょっとここに寄って行きたいので」


 焼き鳥屋の煙の渦がわたしを魅惑の世界に誘惑している。


「やきとりですか。おいしそう。わたしもご一緒していいですか?」


「もちろんです」


 わたしと美加子はやきとり屋台の暖簾のれんをくぐった。


「いらっしゃい!毎度ご来店どうもありがとうございます」


 いつもの店主が笑顔で出迎えてくれる。わたしたちは作り付けの椅子に腰をかけた。注文しないうちに、ビールといくつかのやきとりが出て来た。まるでわたしのために用意してくれていたかのようである。


 美加子は異世界に迷い込んだ一匹の白兎のように店内を見回している。


「先生、毎日ここでお食事していらっしゃるんですか?」


「うん・・・・・・まあね」


 わたしは自分と美加子のグラスにビールを注いだ。美加子はきちんと並べられたもも肉、ネギ間、つくね、せせり、皮を見つめる。わたしは心なしか震える指で、ひと串つまむと美味しそうに口の中に運び込んだ。


「沢口さんもどうぞ」もぐもぐしながら、やきとりをビールで流し込む。「ここの店はタレがいいんですよ。醤油2、みりん2、酒1、砂糖1の黄金比が絶妙なんですよ!」


※※※※※※


 帰り道、ぼくと美加子はちょっといい気持ちになっていた。ひとりで飲むより、連れがいた方がお酒が進むのだ。特に美人が隣にいたのだからなおさらだろう。


「先生はどうして毎晩あそこに行かれるのですか?」


「さあ・・・・・・どうしてかなあ。気がつくといつもあそこに座っているような気がします」


「無意識の条件反射ってことですよね」


「そうなりますかね」


「いちど診察したほうがいいかもしれません。じつはわたし精神科医なんです」


「そうだったんですか。それじゃあこれからお願いしちゃおうかな」


「かまいませんけど・・・・・・いま先生の頭の中にはわたしとそろばんのどちらが映ってます?」


「ええと・・・・・・」


 わたしの頭の中には、そろばんが浮かんでいた。そしてそろばんの玉に見えていたのは・・・・・・そうか!ようやく謎が解けたぞ。どうやらわたしの頭の中では串に刺さったやきとりがそろばんの玉に見えていたのだ。


「着きましたけど」


 そこはわたしたちの住むマンションだった。美加子がわたしに視線をむけた。「ご馳走になったお礼にわたしの部屋でお茶でもいかがです?」


「願いましては・・・・・・」

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