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レーサーの恋物語

 カー・レーサーであるわたしの趣味は“スリル”に他ならない。


 ライバルとの駆け引き、試合運び、ファイナルラップのデッドヒート。これらはレースをやっている者にしか理解できない至福の時間なのである。


 恋も同じだ。


 しかし、今回のお相手は少し勝手が違う。ひと波乱起きそうな雰囲気だった。なぜならば、エイミィはぼくと同じチームのレーシング・ドライバーだった。


 そしてそれまでの彼女の彼氏と言われていたのが、やはり同じチームのピットクルーのひとり、竹沢たけざわだったのだ。


※※※※※※


 わたしはその日、新しいレーシング・カーでテスト走行をする予定だった。


 いつもより早めにピットに入る。レーサーには二通りあって、全てをピットクルーに任せっきりな選手と、率先して自分で確認しないと気が済まない選手がいる。わたしは後者の方である。


 誰もいないピットの中で、タイヤの溝ゲージで深さを測ったりしていたときに、ふと目に留まったものがある。タイヤのエアゲージ記録簿である。わたしはその数値を見て我が目を疑った。基準値よりもかなり低い数値だったのである。


 この状態でサーキットを走行し続ければ、タイヤの伸縮を繰り返すことになり、最後には蓄熱してバースト(破裂)を引き起こしかねない。これは竹沢の仕業に違いない。


 わたしはピットを後にした。


※※※※※※


 テスト走行が始まった。


 プロトタイプの新型スポーツカーは順調な滑り出しをみせていた。タイヤの表面温度もぐんぐん上がっている。


「どうだ竹沢。なかなかいい調子じゃないか」


 いささか太り気味のチームリーダー、梅本うめもとが長身で痩せ型の竹沢の肩をたたいた。竹沢は神経質そうな顔に薄い笑みを浮かべた。


「ええ。新しく採用したタイヤですが、カーブでのグリップと抜け出しがいいみたいです」


「ほう」その時背後からわたしが話しかけた。「そうなんだ」


 竹沢が「え?」という顔をして振り向いた。竹沢の瞳にわたしが映っていた。馬鹿な奴め、焦っているんだな。


「あれ、今日のテストドライバーは中嶌なかじまじゃなかったか?」


 梅本が驚いた顔をする。


「ちょっと訳があって」わたしは竹沢から目を離さずに答えた。「エイミィと交代してもらったんですよ」


「・・・・・・」


 竹沢は無言でサーキットを凝視している。こいつ無視するつもりか。


「いま何周目ですか?」


 わたしはリーダーに訊ねた。


「8周目だ」


 停めなくて大丈夫なのか。ぼくは竹沢の横顔を眺める。動く気配がない。クソ、こいつこのままエイミィを見殺しにする気だな。


「梅本さん。停めましょう。中止です」


 わたしはリーダーの肩を掴んだ。


「なにを言ってるんだ」


 梅本の制止を振り切り、わたしは無線のスイッチを入れた。


「エイミィ、中嶌だ。ありがとう、今日のテストはこれで終わりだ」


 エイミィのイヤホンからわたしの声が流れた。


「え、なに。どうしたの?」


 ヘルメット内のマイクロフォンにエイミィが応答する。


「そのマシンは今、たいへん危険な状態にある。すぐにピットに入ってくれ」


「いやよ。まだこれからじゃない」


「いいから言うことを聞いてくれ。わたしは君がいなければこれから生きていけないんだよ!」


「・・・・・・分かったわよ」


「ありがとう。エイミィ。愛してる」


※※※※※※


 エイミィの運転する車がピットに滑り込んで来た。わたしは走り寄ってドアを開け、エイミィを抱きしめた。


「いったい何があったの?」


 エイミィがヘルメットを脱いで戸惑いながらも笑顔をみせる。長い髪がキラキラと風になびいた。


「中嶌さん」


 背後に竹沢がぽつねんと立っていた。


「エイミィに対する中嶌さんの気持ちが本当なのか試してしまいました」と言って頭を下げた。「すみませんでした」


「それじゃあ・・・・・・タイヤは今、正常値なのか?」


「当たり前ですよ」竹沢は目尻に皺を寄せて白い歯を見せた。「これでもぼくは一流のピットクルーですよ」


 わたしはため息をついた。


「こんなスリルはもう二度とごめんだね」


 そして苦笑いをして竹沢の肩をたたいた。

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