「これで青春も終わりね」
うなだれる
ぼくは彼女の細い肩を抱きかかえた。励まそうとしたのだ。そう、ただ単に励まそうとしただけだったのだ。
クロスカントリーとは、野山を駆け巡る長距離走のことである。その種類は多種多様に分かれており、陸上競技のほかに雪上で行われるクロスカントリースキーや、自転車を使うクロスカントリーラリーなどがある。
綾は大学のクロスカントリー部に所属している。数少ない男女混合リレーの選手であった。男子と女子それぞれ2名ずつの合計4名で2kmずつ8kmを走る競技である。
各地の予選を勝ち抜き、今日が本戦だった。ところが、ぼくがバイトを抜けだして駆けつけたとき、そこには不穏な空気が漂っていた。なんとスタート1時間前に、アンカーを務めるはずだった選手が足をくじいてしまったのだ。全治1週間の致命的な捻挫だった。
「補欠選手モイナイシ、棄権スルシカナイネ」
イタリア人のコーチ、カルロスが天を仰いだ。異様に毛深い中年男であった。しかも頭が禿げ上がっている。悄然とする綾をなだめながら、ぼくはとんでもないことを口走ってしまった。
「あの、ぼく代わりに出ましょうか?」
全員がぼくに視線を向けた。
「走レルノカ?」
カルロスが目を見開いて尋ねる。
「いや、普通には・・・・・・大学生活最後の大会でしょ。参加するのに意義がある・・・・・・なんて」
「ヨシ、掛ケアッテクル」カルロスが事務局のテントに走って行く。
「だいじょうぶなの。無理しなくていいよ」
綾はぼくを気遣ってくれた。
「なんとかなるって。順位さえ気にしなければ」
「ありがとう」
そこへカルロスが戻ってきた。
「OK!ダイジョウブ。デモ走ル順番ハ変更デキナイソウデス」
※※※※※※
スタートが切られた。
1番手は男子の横川選手だ。序盤、団子状態の中から抜け出したものの、途中から追い上げられ、10組中の8位まで順位が下がってしまった。
2番手の女子は吉川選手だ。彼女は俊足を活かし、徐々に順位を上げて行き、3番手の綾にバトンを渡したときには6位に順位が上がっていた。
綾は呼吸を整えながら、下り坂と上り坂の緩急をうまく使い、5位だった選手を追い抜くと、その差をさらに広げていった。そして4位の選手の背中が見えたところで、ぼくにバトンタッチした。
「お願い。あの選手を抜かして。入賞できたらキスしてあげる!」
「え、本当?」
ぼくはロケットばりにスタートダッシュをかけて爆走を開始した。両膝に手を置き、肩で息をしながら、綾がぼくの後ろ姿を見送った。
「・・・・・・バカなの」
「おい、短距離走かよ」
ぼくのスピードは1kmを過ぎても衰えなかった。
「すごい!」沿道の応援客が騒いでいるのがわかる。
それはそうだ。ぼくのバイトは富士山の荷物運びなのだ。酸素が希薄の中を、自分の何倍もある重量物を頂上の山小屋へ毎日のように運んでいるのである。
2位の選手は残り500m地点で抜き去った。
そして、いよいよゴールの直前、砂埃を上げて迫ってくるぼくの迫力にビビったのか、1位を走っていた選手が後ろを振り返る。その拍子になんと足がもつれて転倒してしまった。
キス、キス、綾のキッス!
ついにぼくは1位でゴールのテープを切った。そして、祝福のキスの嵐。
でもそれは綾ではなかった。コーチのカルロスのキスだったのだ。
その夜からぼくは悪夢にうなされるようになってしまった。あのコーチは“クロカン”などではなく、ぼくからしてみれば“グロ漢”以外の何者でもなかった。