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夏目漱石の事件簿

 そうだ。夏目漱石の作品名をつなげてみよう。なにか物語ができるかもしれない・・・・・・


※※※※※※


 東京帝国大学を卒業した小川は、広田先生の口添えで学友で腐れ縁の佐々木与次郎と伴にとある新聞社に入社した。


 社会派を気取る与次郎の所属は希望したとおり社会部であったが、とくに希望を持たない三四郎は文化部で、新聞小説の原稿受け渡し係などを担当していた。しかも担当は広田ちょう・・・・・・ようするに夏目漱石なのであった。


 与次郎が“偉大なる暗闇”と呼んではばからなかった高校教師広田が、ほんの余興で綴った小説をいつものごとく無断で雑誌『ホトトギス』に投稿してしまった。

 それが意外にも世間で好評を得てしまい、生涯独身主義を貫き通すのかとばかり思っていた先生は鏡子夫人という細君を得、高校教師を辞して今では押しも押されぬ職業作家に収まっていたのだ。


「おい、里見の御嬢さんに子供が産まれたそうだぞ」

 訊かれもしないのに与次郎が編集部まで押しかけてくると、三四郎をつかまえて教えてくれた。相変わらずお節介な男である。

「そうか」

「そうかじゃない。昼行燈あんどんみたいに生返事なまへんじをしやがって。君もそろそろ別の女を伴侶に考えないといかん。三輪田のおみつさんはどうなった?」

 お光さんとは三四郎の故郷の幼なじみの名前である。ちなみに三四郎は九州男児なのだ。

「昨年片付いたそうだ。よし子さんと同じだ」

 よし子さんとは三四郎が上京したときに世話になった大学准教授、野々宮宗八の妹さんのことである。以前与次郎は三四郎に高嶺の花である美禰子のことはあきらめて、よし子を嫁にもらったらどうかと提案したことがあった。

「君がぐずぐずしていたからだろう」

「東京が性に合わないからなのだそうだ」

「ふん。言い訳だろうな。『Pity's akin to love(可哀想だってのは惚れたっていうことよ)』とはこのことだ。それより先生、細君を置いて英国イギリスに留学してしまったそうだぞ」

 三四郎は旅行鞄の皮ベルトを締めながら言った。

「これから僕も先生を追いかけて長期出張に出掛けるところだ」


 三四郎はロンドンに到着すると、真っ先に漱石の下宿するアパートを訪ねた。事前に漱石に手紙を入れておいたのである。するとそのアパートの入り口にはなにやら黄色いテープで境界線が引かれており、容易に立ち入ることができないようになっていた。

「Did something happen?(何かあったのですか?)」

 三四郎がなれない英語で近隣の野次馬に尋ねてみると、なにやら殺人事件があったのだそうだ。

 現場は四階の部屋で、亡くなったのは中年の男だという。

 それが、明らかに殺人に見えるのに、窓は開いていたが部屋は中から鍵が掛けられていた。窓には手すりどころか雨樋あまどいも、足場も無いので、隣室に飛び移るとか、階下に跳び降りることは不可能である。

 まさに密室殺人である。


 先生の部屋も確か四階のはず。まさか・・・・・・。そこへ黒い警帽をかぶった若い警察官が軽快な足音を立てて階段を降りてきた。三四郎はすかさず新聞社の身分証明書をみせて詳細を尋ねてみた。

 亡くなったのはヘンリーという英国人だという。

「君は広田氏を知っているのか?」

 三四郎を訝しげに見る警官が訊ねた。

「もちろんです。それは夏目漱石の本名です」

「そうか、彼が夏目漱石だったのか」警官はアパートを見あげて言った。「彼は密室トリックを解明するため、倫敦ロンドン塔に向かったよ」


 は塔とは唱っているが実際には古城であった。三四郎はみごとな彫刻がほどこされた城の虎口こぐちで憲兵に止められた。

「漱石氏に言われた」憲兵は漱石のサインの入った手帳のページを目の前にかかげてニッコリと笑った。「ここに小川三四郎という者が訪ねてきたら、よく来たなと言ってくれ。の前で待つようにと」

 なんと、夏目漱石はロンドンでも既に名士になっていたのだ。ロンドンでの生活は社交辞令に長けた文豪森鴎外とはをわけたが、密かに熱狂的なファンがいるようだ。

 三四郎は仕方なく、平らなところので横になり、道を眺めたり、時々堀の水面に“”と小石を投げ入れたりして所在なくすごすしかなかった。


 しばらくして、長身でほっそりとした針金のようなシルエットの広田先生が現われた。口にパイプをくわえている。

「なんだ。原稿をもらいに、ロンドンまで追いかけて来たのかね」

 三四郎は苦笑しながら頭をかいた。

「先生。ご無事でなによりです」少々げっそりした漱石の顔をみて安心した。「すこしお痩せになりましたか?」

「うん。英国ここの食事が合わなくてね」

「そうですか、あとで一緒に水蜜桃を食べましょう。日本から持参してきました」

「それはありがたい」

「先生。以前からパイプをやられましたか」

「ああこれか。原口さんからの選別だよ。煙管きせるより風格があってよろしい」

 原口とは三四郎が密かにこころを寄せていた里見美禰子みねこをモデルに『森の女』を描いた画家である。

「そうですか。これからどちらへ?」

「うん、アパートに戻るのさ。実はここの暮らしになじめなくてね。日々学校とアパートの往復だ」

「警察がトリックがどうとか言っていましたが」

「うむ、あとで話そう」


※※※※※※


「ヘンリーさんはわたしの向かいの部屋の住人です。彼は他人に殺害されるような人物ではありません」

 明け、漱石は三四郎を伴ってロンドン警視庁のキャデラック警部の前に立っていた。キャデラックは豊かな口ひげを蓄えた恰幅のいい初老の男であった。

「昨日倫敦塔へ赴き、その証拠を見つけてきたのです」

「本当ですか夏目先生。警察としても、不可解な事件で困っておったところなのです」

「地方でとして働いていたヘンリーさんは、閉坑後ロンドンに出稼ぎに来ていたのです。しかし先日、その製氷工場を解雇されてしまったのだとか。悲嘆にくれた彼は、部屋に鍵を掛け、ナイフ状の物で自身の心臓を突ら抜いたのです」

「しかし先生。それなら部屋に凶器が残っていていいはずですが」

「ロンドン塔には渡りガラスが放し飼いにされているのをご存じですかな?」

「ああ。あの大型カラスのことですな」

「彼は事件の日、それを一羽持ち帰り、あらかじめ魔法瓶で保管しておいた氷で作ったナイフを、カラスの足に括りつけてから胸に突き刺したのです。カラスが倫敦塔に舞い戻った頃には氷が溶けて、足に紐をつけたカラスが一羽いるだけです」

「なぜそんなことを?」

「故郷の家族に保険金を残すためでしょうね」

 三四郎は漱石の明晰な推理にほとほと感服してしまった。


 翌朝この事件のことは現地の新聞でも大きく報じらた。そしてなぜかその記事の写真には、漱石の隣に立っていた三四郎までもが一緒に掲載されてしまっていたのだ。これには三四郎も大いに狼狽し、東京本社に釈明の電話を入れることなってしまった。


「アーサーはいるかい?」

 その日キャデラック警部は医者で友人のアーサー宅を訪ねていた。

「おはよう警部。また眼の調子でも悪くなったのかね?」

 丸顔のアーサーは長椅子にゆったりと腰をかけてパイプを楽しんでいた。彼もキャデラックのように立派なひげを蓄えている。

「相変わらずこの診療所には患者が来ないみたいだな。それより用件はなんだい?きみの方がぼくを呼んだんじゃないか」

「あはは、そうだった」アーサーはイタズラが見つかった子供のようにはにかんだ。「きみみたいに毎日忙しく働いてちゃ、ゆっくり好きな本も読めないだろう。紅茶でも淹れるかい?」

「ああそう願いたいね」

 キャデラックは山高帽とヘリンボーン柄のコートを鹿角のハンガーに掛けると、客人用のソファーに深々と腰をおろした。アーサーは奥にいる給仕に向かって、紅茶をふたつ淹れるように指示をした。

「ところで今朝の新聞は読んだかね」

 アーサーはキャデラックの前に朝刊を投げて寄越した。

「もちろんさ」

 そこにはパイプを吹かした気難しそうな漱石と、実直で真面目そうな三四郎の姿が掲載されていた。

「その記事のことなんだがね」アーサーの鋭い目がキャデラックを捉える。

「このふたりがどうかしのかい?」

「『日本から来た名探偵難事件を解き明かす』・・・・・・そのふたりのことを詳しく話してくれないか?」

「もしや、今度はかれらを小説の題材にしようっていうのかね」

「そうさ。どうだろう、名探偵とその助手の冒険を小説にしようかと思うんだが」

「いいとも。だれがアーサー・コナン・ドイルの新作に協力を惜しむものか」


 そんなある日、漱石は体調を崩し、急遽日本に帰国してしまった。

 三四郎のイギリスにおける、新聞社から請け負った取材期間は九月のであった。しかし三四郎は、予定を大幅に繰り上げ、漱石を追って五月に帰国した。

 帰りの機内で三四郎は、背広の内ポケットから一葉の葉書を取り出した。以前に美禰子からもらった絵葉書である。そこには悪魔デビルに睨まれた草原にたたずむ二匹の仔羊が描かれていた。


 日本ではすでに(ひなげし)が唐傘のような深紅の花を咲かせていた。漱石は現在、修善寺で闘病生活を送っているという。

 三四郎が修善寺に向かう道をとぼとぼと歩いていると、遠くから浅葱色あさぎいろの着物を着てベビーカーを押す女が歩いてくる。美禰子であった。

「お久しぶりです」

「どうなすって?」

「広田先生のお見舞いですか?」

「はい・・・・・・でも」

「僕もです。お嬢さんが産まれたそうですな」

「ええ。あなたもお元気そうですね」

「なんとかやっています」

 美禰子は以前よりも少しふっくらとしたように見受けられたが、顔の骨格の柔らかな感じは以前のままであった。三四郎は聖母マリアはきっとこんな顔立ちだったに違いないと思った。

 もちろん美禰子から見れば三四郎の方もいっぱしの社会人となり、それなりにたくましくなったような印象を受けていた。

 でも基本的にふたりの間には、密やかで底知れぬ懐慕の念が渦巻いていることには変わりはない。

「それでは」

 美禰子は眩しそうに三四郎を見つめ直すと、軽くお辞儀をして行ってしまった。

 三四郎はいつぞや病院で会った時のように、静かに女の後ろ姿を見守っている。後には以前三四郎が美禰子に選んだ香水『ヘリオトロープ』の甘いバニラのような微かな残り香りが漂っていた。

 三四郎は口の中で迷える羊ストレイシープとつぶやいた。


 三四郎が修善寺に到着して漱石の容態を尋ねると、に座していた鏡子夫人から、一通の短い手紙メッセージを手渡された。

 三四郎はその一文をなぜかぼんやりといつまでも眺めていた。

。Pity's akin to love.」


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