「サキ、俺と真剣勝負をしてほしい。条件は、一教科でも俺が勝ったら――」
「馬鹿ですか? 真剣勝負の意味、分かってます? 文化祭のテンションで頭お花畑になりました?」
二学期の期末考査が近づいた、ある日の放課後。
サキは学校が終わるとそのまま蓮の家へ向かい、いつものように家事をこなしていた。
二人で夕食を終え、皿洗いをしている最中だった。
正直、そろそろ来るだろうと思っていた。
蓮はわかりやすい性格をしている。案の定、彼は勝負を仕掛けてきた。
言わなくてもわかる。「お家メイドプレイ」が目的だ。
ただ、今回の勝負の内容は明らかにサキに不利だった。
ため息をつく前に、思わず強い口調で返してしまった。
それでも蓮は、サキの反応など気にも留めず、真面目な表情で続ける。
「俺、思ったんだよ」
「何ですか、急に改まって」
「サキにまともに挑んだって、勝てるわけないなって」
「……はぁ」
サキは皿を洗いながら、蓮の話を半分流しつつ聞いていた。
水の音と、皿がカチンと当たる音だけが静かな空間に響いている。
それでも蓮は言葉を続ける。
「だからもう、俺が勝つには手段を選んでられないって結論に至った」
「……その事情に私を巻き込まないでください、変態」
「……もしかしてサキ、俺に負けるのが――」
「怖くありませんよ」
「ですよねぇ」
「勝てる見込みもないのに、そんな馬鹿げた話しないでくださいよ。こっちだって忙しいんですから」
(何がしたいんですか、蓮くんは)
手を止めることなく、サキは冷静にあしらう。
最近、蓮はちょっとアホなんじゃないかと思い始めていた。
いや、成績はいいからアホではない。けど、考えなしに勝負を仕掛けすぎている気がする。
たぶん最初から断られる前提。あわよくば、程度の軽い気持ち。
以前の蓮はもっと本気だった。イカサマにも全力で取り組み、中間考査も必死に勉強していたのに。
「じゃあ、あとは拭いておくので、あっち行っててください」
「辛辣だなぁ……」
蓮は苦笑しながらその場を離れる。
サキは、どこか期待外れだった。
(……なんかショックです)
かつては、ちゃんとした勝負だった。蓮は準備をし、計画を立て、努力していた。
だが、今はあの文化祭以降、彼は少しナイーブになっている気がする。
必死になった結果、玉砕して、すっかり燃え尽きたのかもしれない。
「お家メイドプレイ」への情熱も、諦めつつあるのだろう。
サキはそんな蓮に、少しだけ寂しさを感じていた。
勝負そのものは嫌いだったはず。でも、今では少し楽しみにしていた。
勝って、命令して、蓮が悔しがる。それが新鮮で、どこか嬉しかったのだ。
「拍子抜けですよ」
「ん? 何が?」
「……いえ、別に。他にご用ですか?」
「いや、お茶を淹れようと思って。サキも飲む?」
「ありがとうございます」
そう言って、蓮は後ろから電子ポットを手にやってきた。
最近の蓮は、こういう優しさを自然に見せる。
サキはその優しさに、少しだけ甘えることにした。
皿洗いを終えると、蓮は椅子に腰を下ろし、二人分のお茶を用意していた。
以前はすべてサキがこなしていた家事。けれど今では蓮も手伝ってくれるし、こうして一緒にお茶を飲む時間も当たり前になってきた。
「それで? 何が拍子抜けだったの?」
「聞いてたんですか? 盗み聞きとは最低ですね、この変態」
「たまたまだって! 俺の黒歴史をちょくちょく絡めるのやめてほしいなぁ……あと、もうちょっとオブラートに包んで……」
「蓮くん、豆腐メンタルですもんね。もちろん絹ごしの方で」
「なんで豆腐の種類まで指定されてるの……崩れやすい方じゃん」
やっぱり聞かれていたか。
まぁ、隠すような話でもない。サキは軽くからかいながらも、変わらぬ調子で話す。
文化祭を経て、こんな風に他愛ない会話を交わせるようになったのは、少し嬉しい。
「最近の蓮くん、ちょっと腑抜けてるかと思いまして」
「……と言うと?」
蓮はキョトンと目を丸くする。
「さっきの勝負の話です」
サキはまっすぐにそう返した。
正直、蓮と勝負するのが嫌じゃなくなっている自分がいる。むしろ、高め合うことに少し喜びを感じている。
「勝てる気がしないからなぁ」
「腑抜けですね」
「あはは……」
蓮は言い返さず、静かに笑うだけだった。
本人も、自分の今の状態を自覚しているのかもしれない。
文化祭で燃え尽きたのだ。
その頑張りがサキのためであったことは、サキはちゃんと知っている。蓮はそれに気づいていないけれど。
今の蓮は少し覇気がない。
けれどサキは、全力で何かに挑む蓮が好きだった。
だから少しだけ、寂しいのだ。
「……あ、そうですよ。やる気がないなら、出るまで追い詰めればいいんです」
「……なんか不穏なワードが聞こえたんだけど」
サキは思いついたように言った。蓮は少し目を細めて警戒する。
「蓮くん、たしか私に命令できる権利、二つありましたよね?」
「……うん、確かに」
「では、命令を下します」
「……は?」
突然の展開に、蓮は首を傾げる。
やる気がないなら、奮い立たせればいい。
文化祭のときに手伝ったお礼として得た命令権を、ついに使うときが来た。
「今度の期末テスト、一教科でも蓮くんが勝てたら、あなたの勝ちでいいですよ。ただし、私が勝ったら……一生、私の言いなりですからね」
「なんでそうなるの!?」
「命令は絶対ですよね? 蓮くんに拒否権はありませんから」
今の蓮に、拒否権などない。
サキに不利な条件だが、負けても問題ないと判断している。
蓮のことだから、追い詰められれば、きっとまた本気になる。
むしろ、不利な条件ほどやる気になるタイプだ。
(……まぁ、私が負けても命令できないかもですしね)
サキには、ちゃんとした思惑があった。
蓮の性格を理解し、導き出した策。
こうして、期末テストでの勝負が決まった。
蓮はまだサキの狙いに気づいていなかったが、その夜から必死に勉強を始めた。
勝ち目のある一教科古典に全振りすることを決めて。
他の教科を少し犠牲にしてでも、彼は勝利を目指し、動き始めたのだった。