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科学の子

戸川翔平とがわしょうへいくんだね。先ほどお父さんが交通事故にあわれてね、今病院に運ばれたんだ。早く車に乗って」


「おじさんは誰ですか?」


「お父さんの会社の人だよ」


「知らないおじさんの車に乗ってはいけないと言われているので」


「困ったなあ。それじゃあ会社の社員証を見せてあげるから・・・・・・ほら、これだよ、見てごらん」


 翔平が車窓の外から、男の差し出した手帳を覗き込む。すると突然男の手が少年の襟首をつかんだ。そして、まるでワニが小動物を川に引きずり込むように、翔平は車の中に飲み込まれてしまった。


※※※※※※


“誘拐事件発生。被害者は戸川翔平くん、小学2年生の男児。下校途中にさらわれた模様。容疑者の車は黒のセダン。誘拐当時の翔平くんの服装は・・・・・・”


 警察無線が頻繁に付近の警察官に対して捜査を促している。


 翔平の父、戸川駿介しゅんすけは犯人の電話を受けるため、自宅のリビングで捜査員たちに囲まれて待機していた。駿介と翔平は、父ひとり子ひとりの父子家庭だ。翔平の母は翔平を産んだ後、すぐに亡くなってしまった。


「犯人に心当たりはありませんか?」


「ありません。どうして翔平がこんな目に合わなければいけないんでしょうか」


「資産家であるあなたに目をつけたのでしょうね。たったひとりの家族なら、身代金をいくらでも吊り上げられるとでも考えたのかもしれません。卑劣な犯人です」


 その時電話のコール音が響いた。そこにいた全捜査員に緊張が走る。


「はい戸川です」


「子供は預かった。明日までに現金で2億円用意しろ。まさか警察に言ってないだろうが、逆探知が怖いからこれで一旦電話を切る」


「おい、翔平は無事なのか」


 すでに電話は切られていた。


「バカなやつです。刑事ドラマの見過ぎだな」刑事が鼻で笑った。


「どういうことですか?」駿介が訊く。


「あ、これは失礼。今やデジタルの時代です。ここに電話を掛けてきた時点で、どこから犯人がかけたのか瞬時に分かってしまうのですよ」


「それじゃあ」


「はい。いま捜査員が犯人確保に向かっています」


 その時警察無線が入る。


“犯人が逃走。犯人が逃走。世田谷方面に向かって・・・・・・あっ!”


「どうしたんだ!」


“いま犯人の車とダンプカーが正面衝突しました。犯人の車は大破、炎上中です!”


※※※※※※


 犯人の搬送された病院である。病室の前で駿介と刑事が話している。


「それで、翔平は」


「車には同乗していませんでした。犯人の家の家宅捜査を行いましたが、ここ数日帰宅していないことがわかりました。どこか別の場所に閉じこめられているのだと考えられます。犯人が意識を取り戻したところで聴き出します」


「そうですか」


「ところで、犯人をご存知だそうですが」


「だいぶ前に雇った従業員です。素行が悪かったので退職してもらったのを逆恨みしていたのだと思います」


「どんなお仕事をされていたのですか?」


「科学薬品や器具を作る会社です。息子の翔平も科学が大好きで・・・・・・」


 父はそこまで言うと、息子のことを思い出して涙が止まらなくなってしまった。


「犯人が意識を取り戻しました」看護士が刑事に声をかけた。


※※※※※※


「大変危険な状態です。質問は手短にお願いします」医師が刑事に忠告した。


 刑事は包帯で目しか見えない男に向かって顔を近づけた。


「翔平くんをどこに隠した。それを教えてくれ」


 男の目が笑ったように見えた。「ああ、暖房もない・・・この寒空じゃ一晩もたないだろう

なあ。可哀想に・・・・・・」


「なんだって。翔平くんがどこにいるのか言いなさい」


「刑事さん・・・・・・人生ってのは・・・・・・はかないもんだな」


 そう言い残すと、男の心電図の山が一直線に変わってしまった。息を引き取ったのだ。


※※※※※※


 この年は、各地で季節外れの大雪が降っていた。すでに夜八時を回っていた。


「都内ではなさそうだな。この季節、屋内ならいくら寒くても凍死するほどにはならないはずだ」


「長野ではないでしょうか」他の刑事が言う。


「なぜそう思う」


「戸川さんの会社を解雇されてから、犯人は点々と職場を変えています。地理感があって、雪深い場所だとしたら長野かと・・・・・・」


「長野に犯人の勤めた会社があるのか?」


「それが、すでに廃業した計器の製造工場が一棟あるだけです」


「廃業した・・・・・・そこだ!その工場が怪しいぞ。現地の警察に連絡だ」


「それが、さきほど現地に確認しましたところ、あちらも今日は大雪で、今日中にはたどり着けないだろうとの連絡が入っています」


「なんだって。人命がかかっているんだぞ!戸川さん。我々も移動しましょう。ヘリを飛ばします」


「ありがとうございます。よろしくお願いします」


 駿介たちは一斉に席を立った。


※※※※※※


 翔平は両腕を縛られたまま椅子に座っていた。外は吹雪のようだ。うなるような風の音が響いている。廃工場の中には暖房がない。シンシンと寒さが身にこたえて来る。明かりはロウソクが1本灯っているだけだった。隙間から入ってくる風で、炎がゆらゆらと揺れている。


 犯人は食料として、パンと水を用意してくれていた。そしてご丁寧に尿意を催したときの為に、洗面器をひとつ無造作に置いてあった。翔平は震える手をロウソクに近づけたが、少しも温かくはならなかった。外が寒すぎるのだ。


 このまま死んでしまうのかな。そしたらママに会えるのだろうか。でもそんなことしたら、パパが悲しむだけだ。なんとかしなくっちゃ。


 その時、背後でゆっくりと影が動いた。翔平は振り向いた。


「だれ?」


※※※※※※


 警察の一行が『信州計器製作所』に到着したのは翌朝であった。


 一面銀世界の中を、雪上車を先頭にして警察車両と救急車、上空にはドクターヘリが出動

していた。刑事たちは沈痛な面持ちで現場に急いでいた。小学二年生が、この環境下で生き長らえる可能性はかなり低いと考えられた。


 救助隊が重機とガス・バーナーを使って重い扉をこじ開ける。朝の光が一筋の線となって工場内を照らし始めた。光の先に翔平がちょこんと座っていた。


「翔平。無事だったか!」


 父は走り寄って息子を抱きかかえた。刑事たちも笑顔でその周りを取り囲んだ。翔平の足元の缶から炎が立ち昇っていた。


「これ、翔平がやったのか」


 缶の周りに大量の温度計が割れて散乱している。


「翔平。温度計の赤い液が灯油だってよく知っていたな。しかもハンカチにしみ込ませて火をつけるなんて」


「うん。お髭のおじいさんが教えてくれたの」


「お髭のお爺さん?」


「よくわからないけど、いつも科学の教室に飾ってある絵のお爺さんが現れたんだよ。灯油はそのまま火をつけても燃えないんだって。何かに染みこませて気化させないとだめだって言うんだ」


「温度計を発明した、あのガリレオ・ガリレイのことか」


「ぼくもいつかあんなお爺さんみたいになりたいんだ」


「お前ならきっとなれるよ。科学に愛された子だもの」


 父は息子を抱きしめた。強く、強く抱きしめた。

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