目次
ブックマーク
応援する
3
コメント
シェア
通報

虹の橋

「もう会えないのかい?」

 ぼくは受話器を握りしめた。

「ええ・・・・・・」彼女の声は小刻みに震えていた。「ごめんなさい。さようなら」

「お願いだ。最後にもう一度だけでいい。会いたい。会ってちゃんとお別れを言いたいんだ」ぼくは必死に喰らいついた。「頼む。一生のお願いだ」

 しばらく沈黙が続いた。そして彼女の声が聞こえて来た。消え入るような声だった。

「・・・・・・分かったわ。よく聞いて欲しいの」

「なに」

「レインボーブリッジがあるでしょう」

「お台場の?」

「そう。明日の夜8時きっかりに、あなたは芝浦ふ頭口から遊歩道を歩いて来て。わたしはお台場海浜公園口から歩き出すから」

「ちょっと待ってくれ。あそこの遊歩道は南ルートと北ルートがあるはずだけど」

「そうよ。あなたとわたしが出逢える確率は2分の1。会えればいいけど、会えなければそれでおしまい」

「運命に従えってことかい?」

「そうよ。運が良ければ会えるかもしれない。嫌ならこれでおしまいにしましょう」

「わかった。絶対に行くから・・・・・・会いに行くから」


※※※※※※


 レインボーブリッジは上下二重構造になっている。上は車専用の道路だ。下は真ん中が電車のゆりかもめ、その両側に車道、そして一番端が遊歩道になっている。

 冬は午前10時から午後6時までだが、夏場の今は朝9時から夜の9時まで歩行できるはずだ。

 ぼくはユキに会うために、芝浦ふ頭口からエレベーターで7階まで上がった。風が吹きすさんでいる。南か北か・・・・・・ぼくは迷ったあげく、北ルートを歩き出した。距離にして1.7km。片道30分の遊歩道である。

 車が通るたびにはげしく揺れる。橋脚の継ぎ目にトラックが通るたびに、列車が連結する時のようなはげしい金属音が鳴り響く。ロマンチックな夜景とは裏腹に、恐怖が現実味を帯びて襲い掛かるのだ。

 橋の中間まで来たが、ユキは現れなかった。

「くそ!南だったのか」

 ぼくは目の前が真っ暗になり、出口に向かって走り出した。お台場まであと480mの地点で標識が目に入る。北ルートP31橋脚にある分岐点だ。レインボーブリッジ唯一の南北交流点がここだ。ぼくは階段を飛び降りるようにして下りていった。巨大なレインボーブリッジの橋脚が頭上に迫る。それをくぐって階段を駆け上がる。

「よし南ルートだ!」

 ぼくは北ルートと並行して走る南ルートを芝浦ふ頭に向かって疾走した。ぼくは息の続く限り走った。ユキに会いたい一心で。

 すると遠く芝浦ふ頭口の出口あたりに、薄すらユキらしい影が見え始めた。

「ユキ!」

 ぼくの声は風に流されて、どこか遠くに飛んでいってしまった。

 それでもなんとかユキに追いついた。心臓が破裂しそうだった。肩で息をするしかない。

 ユキが振り向いた。

「ノブユキなの?」

「ユキ!会いたかった。ごめんよひとりにして。あのときは帰って来れなかったんだ」

「ううん、いいのよ。最後に会えてよかった」

 ユキはぼくの胸の中に飛び込んできた。

「ほんとうに行ってしまうの?」

 ぼくはユキの顔を見つめた。

「短い間だったけど、ノブユキと暮らせて幸せだった」

「ぼくもだ」

「家族を大切にね」

「うん。ユキのこと、いつまでも忘れないよ」

「ありがとう」

 そう言うとユキは温もりだけを残して、水に溶いた絵具のようにかき消えてしまった。

 ぼくは子供のように泣き続けた。

 どこか遠くで静かに花火が上がりはじめる。一輪の花火が、夜空に咲いては消えて行く。


 ※人間と暮らした動物は、この世を去ると、虹の橋のたもとで飼い主がやってくるのを待っているのだという。(アメリカの散文詩より)

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?