「もう会えないのかい?」
ぼくは受話器を握りしめた。
「ええ・・・・・・」彼女の声は小刻みに震えていた。「ごめんなさい。さようなら」
「お願いだ。最後にもう一度だけでいい。会いたい。会ってちゃんとお別れを言いたいんだ」ぼくは必死に喰らいついた。「頼む。一生のお願いだ」
しばらく沈黙が続いた。そして彼女の声が聞こえて来た。消え入るような声だった。
「・・・・・・分かったわ。よく聞いて欲しいの」
「なに」
「レインボーブリッジがあるでしょう」
「お台場の?」
「そう。明日の夜8時きっかりに、あなたは芝浦ふ頭口から遊歩道を歩いて来て。わたしはお台場海浜公園口から歩き出すから」
「ちょっと待ってくれ。あそこの遊歩道は南ルートと北ルートがあるはずだけど」
「そうよ。あなたとわたしが出逢える確率は2分の1。会えればいいけど、会えなければそれでおしまい」
「運命に従えってことかい?」
「そうよ。運が良ければ会えるかもしれない。嫌ならこれでおしまいにしましょう」
「わかった。絶対に行くから・・・・・・会いに行くから」
※※※※※※
レインボーブリッジは上下二重構造になっている。上は車専用の道路だ。下は真ん中が電車のゆりかもめ、その両側に車道、そして一番端が遊歩道になっている。
冬は午前10時から午後6時までだが、夏場の今は朝9時から夜の9時まで歩行できるはずだ。
ぼくはユキに会うために、芝浦ふ頭口からエレベーターで7階まで上がった。風が吹きすさんでいる。南か北か・・・・・・ぼくは迷ったあげく、北ルートを歩き出した。距離にして1.7km。片道30分の遊歩道である。
車が通るたびにはげしく揺れる。橋脚の継ぎ目にトラックが通るたびに、列車が連結する時のようなはげしい金属音が鳴り響く。ロマンチックな夜景とは裏腹に、恐怖が現実味を帯びて襲い掛かるのだ。
橋の中間まで来たが、ユキは現れなかった。
「くそ!南だったのか」
ぼくは目の前が真っ暗になり、出口に向かって走り出した。お台場まであと480mの地点で標識が目に入る。北ルートP31橋脚にある分岐点だ。レインボーブリッジ唯一の南北交流点がここだ。ぼくは階段を飛び降りるようにして下りていった。巨大なレインボーブリッジの橋脚が頭上に迫る。それをくぐって階段を駆け上がる。
「よし南ルートだ!」
ぼくは北ルートと並行して走る南ルートを芝浦ふ頭に向かって疾走した。ぼくは息の続く限り走った。ユキに会いたい一心で。
すると遠く芝浦ふ頭口の出口あたりに、薄すらユキらしい影が見え始めた。
「ユキ!」
ぼくの声は風に流されて、どこか遠くに飛んでいってしまった。
それでもなんとかユキに追いついた。心臓が破裂しそうだった。肩で息をするしかない。
ユキが振り向いた。
「ノブユキなの?」
「ユキ!会いたかった。ごめんよひとりにして。あのときは帰って来れなかったんだ」
「ううん、いいのよ。最後に会えてよかった」
ユキはぼくの胸の中に飛び込んできた。
「ほんとうに行ってしまうの?」
ぼくはユキの顔を見つめた。
「短い間だったけど、ノブユキと暮らせて幸せだった」
「ぼくもだ」
「家族を大切にね」
「うん。ユキのこと、いつまでも忘れないよ」
「ありがとう」
そう言うとユキは温もりだけを残して、水に溶いた絵具のようにかき消えてしまった。
ぼくは子供のように泣き続けた。
どこか遠くで静かに花火が上がりはじめる。一輪の花火が、夜空に咲いては消えて行く。
※人間と暮らした動物は、この世を去ると、虹の橋のたもとで飼い主がやってくるのを待っているのだという。(アメリカの散文詩より)