「どうしたのボーッとしちゃって」
会社の先輩である
翠はいわゆる“できる女”の典型的な要素を兼ね備えた女性だ。容姿端麗、頭脳明晰・・・・・・要するに才色兼備とは彼女のことをさしている。
それに引き換え、聡美ときたら平々凡々、天下泰平、
「あ、ごめんなさい」
聡美は目を見開いて頭を左右に揺すった。どうやらパソコンに向かったまま小舟を漕いでいたらしい。よだれが出ていなかったのが不幸中の幸い。
「だいじょうぶなの?」翠が聡美の顔をのぞきこむ。「聡美ちゃん最近熟睡できてないんじゃないの」
「うん・・・・・・ごめんなさい。実はそうなんです」
「だめだねえ。睡眠不足はお肌の大敵だよ」翠が不敵な笑みを浮かべる。
「わかってます」聡美は両手でうさぎ餅のようなほっぺを挟む。「どうしたらいいのかなあ」
「よし。仕事が終わったら一緒に食事に行こうよ。その後で聡美の家に泊まりに行ってアドバイスしてあげる」
「え・・・・・・そこまでしてもらわなくても」
ここは椅子に座っていなかったら、おもわず後ずさりしているところだ。
「聡美が今の調子だとね、わたしの仕事が増える一方なんだよね。だからわたしのためでもあるのよ」
「はあ・・・・・・」
その晩、聡美と翠は庶民派イタリアンのチェーン店で軽く食事を済ませると、ふたりで聡美のアパートに帰宅したのだった。
「適度なアルコールは睡眠を助けるのだ」と、ふたりはお店で赤ワインをグラスで2杯ずつ飲んでいた。
※※※※※※
部屋に入ると、白い子猫が出迎えてくれた。聡美のペットである。
「ただいま」と聡美が綿帽子のような子猫の頭を撫でる。
「かわいい。この子なんていう名前?」
「ミュウ。2歳の女の子」聡美は人差し指を口の前で立てる。「じつは大家さんに内緒で飼ってるの」
「ふうん。
「そこのソファーに座って。コーヒーでも飲む?」
「ありがとう」翠は聡美の部屋を見回す。典型的な少女趣味の部屋。「でもね、コーヒーのカフェインは覚醒作用があるから寝る前はやめた方がいいよ」
「ああ、そうか」
「眠れないときはホットミルクとか飲んだらどう?」
「でも、わたし乳製品を飲むとお腹こわすから」
「じゃあ
「わかった。そうする」
聡美はポットのお湯をやかんに入れて沸き直すことにした。柱時計を見れば、ちょうど午後9時をさしている。
「聡美はいつも何時に就寝するの?」
「そうねえ。だいたい午後11時前後ってとこかな・・・・・・」
「じゃあ、いま2時間前だね。お風呂に入りなよ。入浴でリラックスして身体を温めるのは熟睡に効果がある」
「はいそれではお言葉に甘えて」
聡美がお風呂に入っている間、翠は紙と鉛筆を取り出して、なにやら箇条書きを始める。それが終わると暇になったのでミュウをからかって遊んでみた。ミュウは人懐っこい性格のようで、翠とすぐに仲良しになった。
聡美がお風呂から出てきた。
「聡美。わたしがお風呂借りている間に、これやっといて」
渡された紙には翠の図解入りで、ストレッチのメニューが書かれていた。決して上手な絵ではない。でもなんとか判読できるぐらいのレベルではあった。
「ストレッチで身体をほぐすことにより、睡眠が深くなるんだって」
「翠先輩。了解です」とパジャマの聡美が敬礼をする。
※※※※※※
「やってるね」
翠がお風呂からあがると、イチゴの模様の入ったパジャマ姿の聡美が翠の作ったストレッチのメニューをこなしているところだった。
「ううう・・・・・・」聡美がうなり声をあげる。「わたしって、生まれつき身体が硬いのよね」
「毎日やっている間に柔らかくなるよ。がんばって」ジャージに頭にタオルを巻いた翠はそう言いながら、リビングの棚のCDを確認し始める。ジャージは聡美の高校時代の愛用品。「なにか静かな音楽ある?ロックとかポップスじゃなくて・・・・・・」
「モーツァルトならあったと思うけど」
「あ、それいい。モーツァルトは“1/F(エフぶんのいち)ゆらぎ音”が出るから、熟睡にはもってこいなんだよ。あとヒーリング音楽とか、川のせせらぎの音とかね」
「ふうん。翠先輩はなんでも知ってる物知りさんなんですね」
翠が笑った。
「小さい音でゆらぎ音楽をかけよう」
翠はCDを機器にセットした。そして立ち上がって、今度はエアコンの温度を確認する。
「室温は大切だよ。夏は27度前後、冬は13度から21度ぐらいかな。あと湿度は50から60%に保つのが肝心・・・・・・と」
ふと見るとストレッチが終了した聡美は、推しのアイドルのホームページの更新チェックでもしているのかスマートフォンをいじりだしていた。
「聡美ちゃん。就寝前1時間はテレビ、パソコン、スマートフォンは観ちゃだめ」
「どうしてですか?」
聡美は目を点にして顔をあげる。
「ブルーライトが目に入ると、身体が昼間だと勘違いして眠れなくなっちゃうんだって」
「そうなんですか?わかりました。じゃあそろそろ寝ようっと」
聡美は翠が入浴中に布団を敷いていたのだ。
「聡美。いつも寝るとき、電灯はどうしてるの」布団に入りながら翠が訊く。
「忘れてつけっぱなしの時もあるけど、スタンドを点けてるときもあるかな」
「できるだけ光の出る器具はオフにするといいよ。真っ暗がいやなら、直接光が自分に当たらないように間接照明にするのがポイントだよ」
「それも身体が昼間と勘違いしないようにってことですね」
「うんそう。最後に音に気をつけよう。熟睡に理想的な静寂は図書館ぐらいの静けさと言われているんだ。具体的な数字だと40デシベル以下ね」
「翠先輩のおかげでなんか今晩はすっごく熟睡できそうです」
※※※※※※
「おはよう。どう、ゆうべは眠れた?」
翌朝、翠が目の下に隈をつくった聡美に訊いた。
「それが・・・・・・」
「なに?」
聡美には言えなかった。
翠先輩のイビキと歯ぎしりでまさか一睡もできなかったなんて。