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第79話 魂に刻んだ忘れるはずの無い記憶





 その日以降、澄美怜すみれの新しい部屋の壁にはまるで装飾品であるかの様にハンガーにかけられたそのシャツが飾られた。


 それはベッドの傍らで彼女を見守る象徴となった。


 澄美怜は日記に書いてある通りに顔を近づけ、彼の存在を嗅ぎとって見た。何とも表現出来ない感情が湧き起こる。少なくとも澄美怜にとって良い匂いに感じる。


 これは、懐かしさ?……そして安心感……あと、何かの渇望?……



 抜け落ちたパズルのピースは多過ぎて、元の画が何であるかが判かる迄にどのくらいかかるのか、少し途方に暮れた。





***





 深優人みゆとからの恋人としての申し出を見送らせた澄美怜すみれ。 同情でそうなって貰う事に抵抗を覚えたが故に。


 だが今後も頼らねばやって行けそうにない。歩むべき道を求めて堂々巡りする。



 それ以来、澄美怜すみれは少しずつ深優人みゆとを試し出した。髪も整えずバサバサ、服も可愛くしない。気に入られる事を一切しない。


 そんな自分を見て、幻滅して欲しいと思った。


 今は与えられるだけの存在。そんな自分に価値などある筈もなく、それが寂しくて空しくて堪らなかった。ましてや深優人みゆとには相互に与え合える運命の人が傍に居るにもかかわらず。


 そうした空虚さがこの事態を生んでいた。


 それでも変わらぬ兄の態度に益々胸が苦しくなる。そんなある時。



―――うっ、今日はお腹の調子が悪いんだった……もっと早くトイレに来なきゃだったのに……こんなに汚してしまった……早くお母さんを……


 いや、こうなったら兄さんを呼ぼう。もう、恥も何も無い。だって……お腹の感覚も無い私を選べばこんな事だって有る。

 今の私は、こんなにも臭くて汚いんだよ!! こんなのもう日記の中の様な澄美怜じゃない!


 ……現実を、思い知ってよっ !!



 だが始末に呼ばれた深優人は顔色一つ変えず即、腕まくり。お腹、痛くない? 大丈夫? 何か要るものある? とねぎらいながらテキパキと片付けて掃除する。


 滲み出る深優人みゆとの変わる事のない優しさ。誠実さ。


 ……どうしてそこまで……


 それどころか、それまでは絶対に遠ざけられていた件を頼ってもらえた事に喜んでいる様にも見えた。その笑顔。このいたわり。



 ……これが……この人の……愛?……



 そうした日々が続いた。そして何も変わらなかった。その揺るぎなさは遥か以前から存在し、覚悟しているものだった。


 ブレる筈など最初からあり得なかったのだ。


 それらはそもそも日記では当たり前に綴ってあった。こうした所、信頼、そして優しさ。


 部屋に戻った澄美怜すみれは、思い出せなくても感じる何かを再びシャツを手にして深く嗅ぎ取ろうとした。


 ……んっ!


 一瞬あのフレーバーティーを飲む兄の幻影とその香り。そして、


『やっぱりこの人が好きだ…… いや、ずっと好きだった?……』


 その刹那、ブワーッと頭の中が真っ白に。天地の感覚が消え、グルグルッと強烈な目眩が。





『あああ、うああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ―――――――――っっっっ!!』





 思わず喘ぐと、記憶の彼方、網膜に焼き付いた映像と共に幾つかの鮮明な記憶が脳内で弾けた。





 それは魂に刻んだ忘れるはずの無いメモリー

 それらの記憶が蘇った。






―――全身に刻まれたもの


 あの晩、極度の不安から救って貰おうと彼の元へ。失ったら消えたくなる程に好きだったんだと理解した。その時、初めて息が止まるほどきつく抱きしめられ、喜びと共にやり返した。

 そして二人、力一杯きつく抱擁をした。薄暗い闇の中にも関わらず温かく、これ以上ない幸福感をもたらした。

 それを生涯の記憶に、そして生きた証とする為に、抱きしめ合ったその感覚を体に刻みつけようとした事。




―――脳裏に刻まれたもの


 告白を拒まれ傷つきすれ違い、やがてパニックから闇落ちして兄を遠ざけ傷つけた。それでも妹の安寧を願って自分の信念を曲げ、恋人になってまで守ろうとしてくれた。

 そうなってようやく自分の愚かさに気付かされ、それを償うために妹のままでいる事を志願した。

 相手を想うからこそ自分の一番大切なものを譲り合った二人。 その事によりどれだけ互いに辛い気持ちだったか伝い合っている内に、想いの強さを比べ合った事。

 その時、この人の為なら死んでもいい、いや、生きてもいい、と心底思った事。そして二度と遠ざけないと誓った事、世界一幸せな妹になろうとした事も。





―――唇に刻まれたもの


 実妹でないと知りリベンジの告白。この人を解放してあげたい、と全力で告白して消えようとした。でも他人なんかじゃないと本気で叱ってくれた事。

 そして兄の本心を知ってしまった事で逆に消える事が出来なくなって、悲しいものになる覚悟でその愛を涙ながらに唇に記憶した……限りなく恋人に近い義妹として。



―――それらが蘇ったのだ!



 ううっ……全部……全部約束の事だ……小学三年生から、いや、それ以前から、全てを差し置いて私の為に自分を犠牲にしてくれてた……私が命をかけた理由……守りたかった私の光……


 いつの間にかその瞳から涙が溢れ、言葉が勝手に頭の中で再生された。




 私は……こんなにも……

 兄さん、私はあなたをっ!

 もう絶対にあなたからっ !!……



 だがギリギリの所でその想いを踏み留まらせた。


 ……だったらこの付き合いで皆が、そしてあの人が本当の幸せに近づくためには……



―――何かの勘が働いた。



そしてとどめた想いは涙になって頬から口へと伝う。それはかつての抑圧され続けた時に流した塩辛いものと同じ味がした事も思い出していた。



  *



 次に会ったタイミングで兄に切り出した。


「兄さん、私、ひとつの結論が出ました。やっぱり…………」



  『妹のままでいさせて』



「……どうして……」


「恋愛だけがずっと付き合ってくための要素じゃないって言ってくれた事、覚えてる? それで思った。その通りだって。今の私はこんな状態になって、別に普通の恋をしたいんじゃないって分かった。だからお願いがあるの……」


 そう、思い出せたあの日……想いの強さ比べをした時に望んだ自分の姿に……


「……その代わり、私を世界一幸せな妹にして下さい」



「世界一幸せな妹……」







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