旅に出よう。そう思い立ったのは三年前だった。一番年の近い兄弟が結婚し見送ったその日からシェリーは決めていた。
王太子の素行は父の耳にも届いていたようで相談したらすぐに賛成してくれた。しかし下位の者から婚約破棄などできようはずもなく、どうにかしなくてはと思っていたら父どころか兄弟たちまで助けてくれたのだ。よほど思うところがあったのだろう。
念願の朝が来た。
荷物はカバン一つの簡素なものにしようとしていたはずなのに立派な皮のスーツケースが三つも玄関に用意されていた。
「おかしい……私は旅に出るはずだったのに。」
旅に出るならと服装だってズボンとシャツを用意していたはずなのに、朝起きたらメイドに上等な空色のドレスを着せられていた。
「これは旅行というやつなのでは?」
いかにも行楽にいくお嬢さんと言わんばかりにつば広の帽子はドレスと揃いで後ろに白いレースのリボンが上品に結ばれている。
「おはよう。シェリー嬢、迎えに来たよ。」
朝日よりも煌めくその笑顔を浮かべるのは昨日パーティーで声をかけてくれた獣人さんこと、レオニード・ライアンだ。
なぜ彼がそこにいるかというと、昨夜に遡る。
◇◇◇◇◇◇◇◇
「お取込み中失礼かと思いましたが、アニマ国と聞こえましたので僭越ながらお声かけさせていただきました。」
大柄なその人は優しい笑みを称え兄弟に囲まれるシェリーを見つめた。見つめられたシェリーはその眼に籠められた熱に気づくこともない。それはそうだろう。王太子はそんな目でシェリーを見つめたことなんかないし、世の紳士諸君は売約済みの令嬢に熱視線など向けたことは無い。
(なんだかよく見られてる。獣人さんってそういうものなのかしら?)
程度にしかシェリーは思わない。熱視線も獣人も初めてで基準すらわからないのだ。そんな彼女が視線にとらえたのはゆらゆらと揺れるしっぽ。
(さ、触りたいっ!あの先端のもふもふを触りたいし、ぴくぴく動く耳も触ってみたいし、ふさふさの髪を撫でたら怒られるかしら?喉とか撫でたらゴロゴロいうのかしら?)
疑問と好奇心は尽きない。なんせ長年の憧れがそこにいるのだ。夢中で見つめた。初対面の相手への礼儀など一切忘れて。
そんな二人の間に声を出したのは武官である長兄ロイドであった。
「これはレオニード・ライアン殿下。ご無沙汰をしております。」
「ロイド、久しいな!前に会ったのは近衛親善試合以来だな。元気そうで何よりだ。」
何やら親し気な兄に視線を向け首をかしげると、文官の次兄がこっそりと耳打ちする。
「この方はアニマ国の第一王子殿下で、ロイド兄さんとは何年か前に剣術試合をして以来親交を深めている仲なんだ。」
「兄さまにそんなすごいお知り合いがいるなんて知りませんでした。」
「獣人は強い者を好むというからね。だいぶ気に入られているようだよ。」
「それはうらやましい限りですね。」
視線は兄ではなく目の前の獣人に向けられる。そんな会話は筒抜けなのか彼の耳はささやきに反応するようにぴくぴくと動いている。
「兄上だけではなく私はシェリー嬢も好ましく思うよ。先ほどの出来事は痛快だった。できればあなたとも親交を深めたいと思うのだが……。そちらの兄上からも紹介いただいたが、レオニード・ライアンという。よろしく。」
差し出された手をそっと握り返してシェリーはぽつりとつぶやく。
「肉球じゃない……残念……。」
「ぷっ。」
「シェリー。」
思わず出た感想にレオニードは咄嗟に顔を背け、空いた手を口元に持っていくもののたまらず噴き出すのはこらえられなかった。ロイドは思わず諫めるように名を呼んだがその声に厳しさはない。この王子がそんなことで気分を害するなどないとわかっているのだろう。
「肉球が好きなのかい?」
「え、あの。ごめんなさい……。」
「ふふ。」
あまりにも失礼だったかと落ち込むシェリーに楽し気なレオニードは差し出した右手だけに見えぬ力を込めるとその手は短い毛におおわれ形が変化している。
「まぁ。」
自身の手の中で変化したその手は獅子の手へと変わり掌にはフニフニの肉球が当たる。その感触が嬉しくてシェリーは思わず両手でくにくにと揉み出す。夢中である。
そうされるレオニードも気持ちいいのか目を細めて笑みを浮かべじっとシェリーの様子を見ている。
「シェリー嬢は我が国に興味がおありのようだが「はい!明日にでも見聞のため出発しようと思っております。」
余程楽しみなのか食い気味に返事をする。
「それはそれは、国を代表するものとして嬉しく思う。丁度よく私も明日帰郷する。シェリー嬢さえよければ同行せぬか?令嬢の一人旅は危険だ。そうだな、友であるロイドの妹君だ国賓としてもてなそう。」
「え?」
「それはありがたい。レオニード殿下ほどのお方なら安心して妹をお願いできる。」
「兄さま?」
「シェリー、私たちは君の意思を尊重したいけど同じくらい心配なんだよ。大切で可愛い妹だからね。」
「安心するがいいロイド。私の名に懸けて妹君の安全は保障しよう。」
「どうかよろしくお願いします。」
と、いった具合にトントンと話は進んだ。それからシェリーはすぐに会場を辞した。
投下された爆弾は処理されることなく会場は騒然としたままだったのは言うまでもない。逃げるが勝ちである。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
そして今まさにそのレオニードが迎えに来たのである。
なぜかその手には白百合の花束がある。
「おはようございます。ライアン殿下。」
渡された花束を礼と共に受け取ると、控えていたメイドが受け取ろうと一歩近づく。
(なんで旅立ちに花束?持っていくのが正解?でも旅に持っていくには邪魔なのでは?って、メイドが進み出るということは置いていっても大丈夫ということか・・・・・・。)
冷静に考えれば果たしてこの状況もどうなのか。
(婚約破棄されたばかりの令嬢が一国の王子と共にっていいの!?兄さまは安心って言ったけど、そりゃぁ結婚なんてもう夢見てないからいいけど。けどですね・・・・・・。)
屋敷の玄関に横付けされた立派な馬車は三台あり、二台目からでてきた従者と思われる男がシェリーの荷物を三台目の馬車に手早く乗せていく。
レオニードはシェリーの横に立つ父に挨拶を交わし、一通の手紙を渡すとすぐにまたシェリーに向き合う。
「シェリー嬢準備はよろしいかな?」
「はい。道中どうぞよろしくお願いします。」
「ああ。こちらこそ。」
にこりと笑ってさっとシェリーの手をとるそれは鮮やかな手際のエスコート。シェリーの歩幅に合わせてゆっくりと馬車に乗せると後ろからレオニードも乗り込んだ。
シェリーの家族への別れの言葉と同時に馬車は動き出すのであった。