「千賀様、お部屋に突然立ち入ったようで申し訳ございません。改めて謝罪の機会を設けさせてください」
千賀社長は義父の謝罪に満足したようで、私たちは解放された。
「瑠璃さん、嫌な思いをさせてすまなかった」
廊下に出るなり義父が頭を下げて来る。
「いえ、でも、警察に通報するべきなんじゃ。あの部屋は嫌な匂いがしましたし、客室が不適切な利用をされてました」
私の言葉に義父がそっと目を瞑る。
「本当にすまなかった。今日はもう帰ってゆっくりして欲しい」
義父の言葉は、私にこの状況に目を瞑れという事。
そのたどり着いた答えに呆然としてると、私はいつの間にか椎名亨に連れられエレベーターに載せられていた。
「全く、坊ちゃんのお嫁さんじゃなかったら、即クビですよ。元CAでしょ。VIP対応くらいちゃんとできないと」
「⋯⋯。」
彼が呟いた言葉に不安になる。飛行機のVIPのお客様は基本大人しく淑やかだ。飛行機が乗り物という性質上、先程のようなとんでもない行動をする人間はいない。騒ぎ立てたりしたら、「安全運行」の名の下にお客様を飛行機から追い出す。ホテルというのは、閉ざされた各部屋で何が行われているのか分からない。
間違ったことをした覚えはないのに、私は一樹さんに迷惑を掛けてしまった。
今日は一樹さんにフライトから戻ってくるのは深夜を過ぎるから寝ててくれと言われた。でも、私の脳は興奮状態でとても眠れない。
鍵を開ける音がして、私は玄関まで行く。
私を見るなり一樹さんが思いっきり私を抱きしめてきた。
「話、聞いた。嫌な思いをさせたみたいでごめん」
その力強い腕と温もりに涙が溢れてくる。
「私のほうこそ、ごめんなさい。きっと、何も上手くできませんでした。何をどうすれば良かったのか今も分かりません」
人に涙を見られたくない。一樹は強い私が好きだと言っていたから、なおさら涙を見せたくない。
だけれども涙が止められない。
一樹さんが私の涙を吸い取ってくる。
「しょっぱい」と呟いた言葉に思わず笑ってしまった。
「甘いと思ってました? 甘いものって貴重なんですね。なんだか世間知らずだったかも。世界がしょっぱくて苦しい⋯⋯」
急に今日経験した事が恐怖として蘇る。
私は思いっきり一樹さんに縋りつき、彼は力強く抱きしめてくれた。ずっと、ああしろこうしろと言われてきた人生。何も言わず背中を撫で続けてくれる彼の腕の中は私にとって居心地が良い。
♢♢♢
千賀社長の一件が伝わったのか、ホテルの従業員が私に対して好意的でなくなったのを感じていた。私はホテル全体の仕事を知る為、自分から今日はフロントの仕事をしたいと申し出た。
チェックイン時刻は15時。今、10分前なのに幾つもの部屋が準備できてない。お客様も当然少し早く到着しただけで、お部屋の準備できているものと思いチェックインしてくる。
「清掃が進んでないのは、どうしてですか?」
「感染症の時、清掃員を沢山クビにしたから人員不足です」
隣にいたフロントデスクの坂口さんが面倒そうに返してくる。
「私、清掃に加わってきます」
「な、何言ってるんですか? 流石に清掃なんかお嫁さんにさせられません」
「清掃の仕事を下に見てますか? 清掃は欠かせない重要な仕事。人員が足りてない? ならば今、手の空いている人間が向かうべきでしょ。15時にチェックインなのにお客様を待たせるなんてあり得ないですよ」
私は呆気に取られる坂口さんをよそに、清掃の終わっていないフロアに向かう。CA時代もラバトリーで突然吐かれたゲロなど散々掃除してきた。
航空機は地上では清掃さんが綺麗に掃除をしているが、上空で客室であった事は当然CAが対応するべきだ。マニュアルにも書いていないけれど、私を含め多くのCAは当たり前のように掃除をしている。清掃さんが掃除をするまでトイレを使用不可にしてお客様に不便をかける訳にはいかない。客室で360度見られていることを意識し背筋を伸ばし、接客対応していても。必死に膝をついてトイレを掃除することもある。湖に浮かぶ白鳥の如く仕事をすることを心掛けていた。お客様に不便をかけず、快適に安全に過ごしてもらうことが第一。それが私が考えるホスピタリティーだった。窓に散ったゲロを綺麗に落とすのにどれだけ苦労した事か。清掃は技術がいる仕事。軽く見てはいけない。
清掃を済ませ、部屋にお客様をいれられる状態にした後、フロントデスクに戻ろうとすると陰口が聞こえた。
「お嫁さん、必死すぎて痛いね。千賀さんの時の失態をなんとかしたいんだろ⋯⋯」
「家でのんびりしてれば良いのにね。別にお金に困ってるわけじゃないんだし」
「千賀食品は物価高でも30年も契約変えずにお付き合いしてくださっていたのに、そういう長い付き合いみたいなのは元スッチーには分からないんだろうね」
「所詮は、飛行機なんて公共交通機関だからね。ホテルみたいな一流のサービスなんて期待して誰も乗らないし⋯⋯」
他人の意見など気にしない方だったが、私への悪評が一樹さんに迷惑をかける可能性を考えると胸が痛くなった。
とにかく、今は自分の出来ることをするしかない。
私はホテルの経営状態が悪く、人材不足という状況を改善できないか考え始めた。
各部署の現状を把握したくて、1週間ごとに配属場所を変えて貰う。私は一樹さんの家の家業を手伝うと約束した以上、最善を尽くしたかった。周囲から必死さを嘲笑されているのが分かっても、私は必死である事を恥ずかしいと思ったことは一度もない。
今、多くのホテルが嘘のようなスピードで倒産している。大手で老舗だからと安心していてはいけない。
1ヶ月後、千賀社長が麻薬取締法違反で逮捕された。逮捕時に使ってたスプリングハズカムホテルで乱痴気騒ぎをしていたらしい。スプリングハズカムホテルは別名乱交ホテルと呼ばれるようになり客足が遠のいた。そして、程なくしてスプリングハズカムホテルだけでなく千賀食品も倒産した。