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<56・悪鬼が地獄に堕ちる時>

「えへ、へへ、へ」


 にちゃあ、と乱汰の顔が醜く歪む。それは一応は笑顔の形を取ってはいたが、恐怖でひきつり笑いをしているようにも、苦痛を堪えているようにも見えた。


「いひひ、ひ、ひ」

「うわ」


 ミノルは思わず後ろに一歩下がってしまう。男が歪んだ笑みを浮かべながら、だらだらと涙と涎と鼻水を垂らし始めたからだ。さながら、体の制御が一切できなくなったように見える。もし下半身が氷漬けになっていなかったら、そちらからも出すもの全て出してしまっていたのかもしれない。

 それは、乱汰が右手で落ちていた本を拾って、それを開いてすぐに起きたことだった。冷静さを欠いた人間は、この部屋の本を無意識に手に取ってしまいがち。そしてこの空間の本は読むと悪い影響を与えるものばかり――というのは、さっき社から聞いたばかりの話である。それを見越して、わざと静が乱汰が座り込んだ手のすぐ傍に本を置いたのだ。動揺しまくっている男が、無意識のまま本を読んでしまうように、と。

 その効果は覿面だったらしい。一体何を思っているのか、何が見えているのか。乱汰は引きつったような声で笑い、あるいは泣きながら、全身をがくがくと痙攣させはじめる。


「おほ、ほほ、ひひひひ、うひ、げへええ……お、おお」


 その目がぐるん、と上向いた。


「らんたはまちがってない、まちがってないのにみんないじめるう、なんでだなんで、かわいそうならんた、おれはかわいそう、みんなにいじめられる、いちばんのはずなのに、ママとパパもそういってくれたのに、せかいでいちばんあいしてくれてるはずなのになんでこんなところにいれて、じぶんをみつめなおせとかそんなはずないママとパパがらんたをひていするはずがない」


 その姿は、あまりにも哀れだった。呟くのはどこまでも空しい、自己弁護の言葉だ。


「ほのかのやつだってみんなほんとうはおれがすきで、えいちゃんもおれのことをあいしてるはずで、らんたにいっぱいいっぱいあいしてもらいたいんだそうすればあいしてくれるんだ、いいやみんなほんとはあいして、それなのにいじめるみんならんたをいじめいじめいじめる、らんたはいいこ、らんたはせいぎ、えいちゃんたすけてらんたはいいこ、らんたはまちがってない、らんたはらんたはらんたはらんたはらん……」


 ひたすら自分を正当化する言葉を、まるで幼児のように舌足らずに繰り返すばかり。段々と、不憫な気持ちが募ってきた。

 確かに、こいつはどこまでもゲスで、ほっておいたら何をしでかすかわからない人間だっただろう。映のためにも、過去こいつの被害に遭った人間たちのためにも、この世からいなくなってもらった方が平和だったのかもしれない。

 それでも、誰かにとっては可愛い息子だったのも事実で。

 その両親だって本当は、真っ当な人間に育ってほしいと願っていたはずで。

 本当にこうなる前に、何か打てる手はなかったのだろうかと思ってしまう。今彼が自分の願望をぶつぶつと垂れ流しているのは発狂したせいだろうが――それでも言っている言葉は、紛れもなく彼自身の本心であり、本質に違いないのだ。

 自分は間違っていると、そう認める勇気がなかった。

 そして、誰も彼にちゃんと、間違っていることを間違っていると根気強く教えなかった。

 こいつに注意してもどうして聞き入れない、あるいはどうせ暴力が返ってくると思えば、誰もそいつから逃げるばかり何もしようとしなくなるだろう。その結果ますますこいつは「自分は正しいとはずなのに、何故かみんなが避けていて孤立する」という状況に置かれるようになる。その結果、周りのみんなが悪い、社会が悪い、そんな他責感情を募らせて膨れ上がっていったのではないか。

 無論そうなったのは紛れもなく本人のせいだ。罰は必要だったことだろうし、結局死ぬ以外に方法はなかったのかもしれない。

 でもその前に少しでも更生できれば、こんな悲惨なことにならなかったのではないかという感情も――どうしても湧いてしまうのだ。

自分達も死体は見ている。恐らく自分達が知らないところでも、多くの生徒や関係者が傷つき、命を落としている可能性が高い。もっと言えば、この男がアルカディアに来る前には、もう。ゆえに、手遅れだと言われてしまえばもう、その通りなのdけれど。


「陛下」

「!」


 静がそっと声をかけてくる。ぽん、と肩を叩かれて、ミノルはあることに気付いた。そっと映の手を引っ張って、乱汰の傍から離れることにする。

 全員が距離を取った、そのすぐあとのことだった。


「らん、らんた、わるくない、らんたはいつもただしいみんなにあいされあいす」


 彼の上に、黒い影が落ちる。本人の下半身と座り込んでいる床が凍り付いているせいで、サインがわからなかったのだ。

 否、わかったところで、狂気の世界に身を落としている男は逃げることなんてできなかっただろうが。


「らんたはすばらしい、らんたを、たす、け」


 ドゴン!

 バキバキバキ、ブチュ、ネチャ、ゴキイ!


 凄まじい音とともに、女神像が四木乱汰の上から落下した。それはあまりにも一瞬のことで、ミノルには男は潰されていく過程を見ることはできなかった。否、見れなくて大正解だった、というべきか。


「うぐっ……」


 女神像の真下から、大量の血液がしみだしてくる。完全に女神像の下敷きになってしまったので、具体的なことは何もわからない。でもその血の量だけでも、どれほどグロテスクな最期を遂げたかは想像に難くないというものだ。

 四木乱汰が、死んだ。最終的には誰かが手を下したわけではなくトラップで死亡したわけだが、そうなるように仕組んだのは自分達なのだから自分達が殺したも同然だろう。

 バキバキバキ、と音を立てて世界に罅が入っていく。ダンジョンワールドというゲームを模した、長く恐ろしい戦いの終幕だった。


「ああ、やっと……終わった」


 そして、砕け散った世界は光に包まれ――目の前の景色が、真っ白に吹き飛んでいたのである。




 ***




 気づいた時。

 ミノルは、静、大空、社、映とともにグラウンドに立っていたのである。

 他の生徒たちもみんな、同じくグラウンドにいた。泰輔や駆も、呆然と座り込んでいるし、他にも生徒や教職員らしき者が何人か。恐らく全員、ミノルたちが知らないところでゲームに巻き込まれていた人達なのだろう。

 その中には、誰かもわからないような死体や肉片となって転がっている者もいて泣きたくなった。黒猿の洞窟でミノルが見た全裸の少年の遺体もある。一体どれだけの人数が、この恐ろしいゲームで死傷したというのか。


「ひい、ひ、ひ、ひっ」


 一体、あの本を見てどんな幻覚を見ていたというのだろう。

 ぐちゃぐちゃに潰れたはずの乱汰は真っ青な顔で、ぜえぜえと息を吐きながら座り込んでいた。負傷は全て治っていたものの、相変わらず顔は涙やら鼻水やらでぐっちゃぐちゃである。どうやら、精神面の傷は一切回復しない、ということらしい。自業自得といえば、自業自得なのだが。


「……映」


 ミノルは、映を振り返った。

 彼に出会った時に受けた説明。このゲームは、確かこういうルールだと言っていたはずだ。




『勝った者は負けた者の言うことをなんでも聞かないといけない。あいつは言ったわ。私が負けたら……一生私を性奴隷にするって』




 乱汰は映を、自分の思い通りになる性玩具にするつもりでゲームを仕掛けた。しかし、最終的に乱汰は映より先に死んだ――つまり、このゲームは映の勝利。

 映は乱汰に、好きなように命令を下す権利が与えられた、というわけだ。


「お前には、そいつになんでも命令する権利がある。でも」


 体を震わせて、明らかに目の焦点があっていない乱汰。落ち着いたらまた、何をしでかすかわからない人間なのは確かだが。


「……お前ひとりに、全部背負えだなんて言ってないからな」

「ミノルくん……」

「重たいなら、俺がお前に『頼む』ぞ。そうすれば、お前は俺の頼みを聞いただけ。お前ひとりが選んだ結果にはならない」


 これは、少し卑怯な逃げ道なのかもしれない、と思う。

 以前、漫画でこんなセリフを言ったキャラクターがいた。一人を一万人で嬲り殺しにしたら、罪は一万分の一になるのか?否、そんなことはない。罪はけして分けあっていいものではないのだ、と。実際、その人物が受けた苦しみは一万倍のまま何も変わらないのだから、と。

 まさに、その通りだ。

 たとえミノルと映で二人でナイフを握って乱汰を殺したところで、罪が半分になることは、ない。殺された人間にとっては、どう転んでも殺されたという事実だけが全て。たとえそいつが、どれほどの極悪人であったとしても、だ。

 きっと、映もそんなことは百も承知だろう。それでも、ミノルは言わなければいけないと思ったのだ。彼がずっと責任を感じていたと知っているからこそ。


「……いいえ」


 そして、映は選んだ。


「私が、決めるわ。……ここまで助けてくれてありがとう、ミノルくん。静くん、大空くん、社くんも。最初から決めていたことよ、最後は私が全部決めるって」


 彼はゆっくりと乱汰の近くまで歩み寄っていく。すると、乱汰の顔が映を見上げ――その表情が、般若のそれと変わった。


「おおお、お前がああああ!おまえ、おまえのせい、全部おまえのせいでぇぇえええ!」


 しかし、男が激昂して掴みかかる寸前、映が冷徹な声を飛ばす。


「座りなさい」

「んぐっ!?」


 命令した途端、乱汰の膝からがくんと力が抜ける。それは、本人の意思を無視した体の動きだった。

 そう、勝者は、敗者の言うことをなんでも聞かなければいけない。この命令は絶対で、恐ろしいものだった。何か一つ言うことをきく、ではなくなんでも聞く、である。つまりもう一生、乱汰は映の命令に逆らうことができない、ということだ。


「あんたを、可哀想だと思うこともあるのよ……四木乱汰」


 映は静かな声で告げる。


「あんたがやったことは99%あんた自身が悪いと思ってるけど……残り1%くらいは環境のせいだと思ってるから。その1%次第で、真っ当に更生できる道もあったかもしれないと思うから。でも……あんたはもう体も大きいし、親も周りも制御できないくらい力をつけてしまった。その状態のまま、子供のように未熟な精神状態と感情を振りまわしつづけるなら……もう社会は、あんたを受け入れるだけの余裕なんかないのよ」

「うぐう、ぐお、お」

「ましてや、私はあんたの先生でもないし、保護者でもないわ。それを教えてやる義務も義理もない。だからもう、あんたに何かを教えようとか、期待することもない」


 恐らくそれは、彼なりの最後の慈悲だったのだろう。

 映は乱汰に、その気になればなんでも命令できる。どれほど苛烈な拷問を課すこともできたはずなのだ。それでも。




「四木乱汰。てめえは自分の目玉抉って、自分で死にな」




 眼球を抉りだす、というだけで終わらせた。乱汰の力ならば、目を抉ると同時に脳まで抉って死ぬことも可能であることだろう。

 否、そうでなくても両目を抉られれば通常はショック死だ。




「ぎゃ、ぎゃあああ、ぐえ、うぎゅううぅ、ぶえ、ああああ。アアアアアアあああぁぁぁぁぁ―!!」




 その後の凄まじい光景はもう、忘れたいほどだ。

 みんなが見守る前で――誰も止めようとしない前で。四木乱汰は言われた通りのことをし、壮絶な死を迎えたのである。


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