多分静は知っていたのだろう――タカナイ山という場所へ向かう道中、ミノルが知っているような特別な建造物を目にすることになる、ということに。
タカナイ山なんて山は、ミノルの世界には存在していない。しかし、その途中にはいくつも令和日本と重なる地名や、似たような歴史を辿ったものが存在しているようだった。例えばそう、日本のシンボルとして有名なアレなんかだ。
「マジで?え、ま、マジでええ!?」
バスの中、思わず席から立ち上がり、叫んでしまったミノル。右手側に見えるのは、赤と白に塗り分けられた細長い三角形の、鉄柱のような建造物だ。
そう、東京タワーである。
自分の記憶が正しければ、確か東京タワーは昭和三十三年――1958年の十二月に施工されたものであったはず。正式名称は日本電波塔。当然、この世界と歴史が分岐したとされる1945年にはまだ存在していなかったものだ(存在していたら空襲で燃えてしまっていただろうが)。
はっきり言って、1945年以降に作られた建造物や文化は、自分達の世界とはまったく異なるものか、存在しないものだとばかり思っていた。これは、思いがけないサプライズである。
「トキョウタワー。……陛下の世界にも存在するのでしたね」
そんなミノルを見てどこか嬉しそうに静が言う。
「かつてはテレビ・ラジオの電波塔として活躍していました。今はトウキョウスカイツリーにその役目を譲っていますが」
「スカイツリーもあるのかよ!?」
「はい。あなたが知っているものとは少しデザインと場所が違うかもしれませんけどね。……歴史はいろいろと異なっていますし、地名や国名も変わっていますが……それでも同じような道筋を辿ったものもたくさんあるんですよ。親近感が湧くでしょう?」
「おう!……へえ、面白いなあ……」
今日は天気も良い。赤と白の東京タワーは青い空に映えて非常に美しかった。
その向こうには、背の高いビルがいくつも立ち並んでいるのがわかる。見れば見るほど、この国の景色は現代日本にそっくりだった。何も知らなければ、日本に帰ってきたと誤解してしまいそうになるほどに。
――なんだ。……もっと、破滅的な世界になってるとか、変なものだらけかと思ったのに。
何か月も学校の外に出られなかったこともあって、実はものすごいディストピアだったらどうしようとか不安に思っていたのである。それが杞憂だったようで、心の底から安堵した。思ったより、この世界はまともに動いているようだ。
それでももちろん、自分が知る世界とは違う点もいくつもある。
何の宗教かもわからない、八角形の提灯がずらずら並ぶ妙な宗教施設の横を通り過ぎたり。
日本語や英語どころか、タイ語にもアラビア語にも見えないような不思議な言語が書き連ねられた看板があったり。
あるいは自分が知る日本よりも歩いている人が他民族な印象であったり、だ。例えば分かりやすく、白人や黒人に見える人がたくさん普通に歩いていたりもする。また、道路を通る車も、自分が知っている乗用車やバスと比べると随分デザインがバラけていた。少なくとも、自分が知る世界では三角形の車や、地面から浮いている車なんて存在するかどうかも怪しかったはずだ。
――似てるところもある。でもやっぱり……ここは俺が知る世界じゃないんだ。
さすがに少しだけ、寂しくなった。
家族の顔がそろそろ見たい、なんて――静たちには簡単に言えることではないけれど。
***
この世界は、自分が知る日本より相当ハイテクなのは間違いないようだ。
それはサービスエリアでトイレ&買い物休憩をした時もそうである。
「うへあ……!」
トイレで洗った手をハンカチで拭きながら出てきたところで、ミノルは腰を抜かしそうになった。看板から、大きな犬のマスコットのようなものが飛び出してきたからである。
『ハロー、ハロー!みんなはもうドッグパラダイスには行った?ぼくたちたくさんのワンコに出会える、まさに夢のような楽園なのさ!一人でも多くの人に来てほしいな!小学生以下は半額だよお!三歳以下のお子様はなんと無料!どうだ、すごいだろー!!』
「マジですごいなこれ……」
屋根の上に掲げられた看板から、大きな犬、小さな犬が何匹も飛び出してきて空を飛んでいる。思わずその一匹に手を伸ばして度肝を抜かされそうになった。なんと、本当にふわふわとした感触が手に触れたからだ。
「え、ほ、ほんものお!?」
「違うよ、リアルビジョンだよー」
ミノルが目を白黒させていると、後ろから声をかけられた。大空である。
「そっか、ミノルくんの世界にはなかったものなんだね。あれ、3D映像を物質化する技術なんだ。2400年ちょいくらいにできたものなんだってー」
「俺がいた世界、2025年だぞ」
「え、そうなの!?じゃあなくても仕方ないか。この世界じゃよく広告に使われてるんだよ。まあ、ちょっと高価な機械が必要だから、アルカディアの授業とか敷地内のコンビにとかにはあんま使われてないんだけど」
「ほへえ……」
すぐ傍を通過していく柴犬をそっと触ってみた。くるん、としたふわふわのシッポが手を掠める。本物としか思えないような手触りがすごい。ただし、特有の獣臭は一切しなかった。あくまで視覚・聴覚・触覚のみを再現する技術であるということらしい。
「まだ、臭いは一部しか再現できてないんだって」
己の掌の臭いを嗅いでいたミノルを見て、大空が言う。
「あと、リアルビジョンは大分広まってはいるけど、機械が極めて高価なのと……あと危険なところもあるってんで、導入に慎重になってる企業もあるかな」
「確かに、実際に物質化するとなると、ぶつかって怪我する人とかも出そうか」
「そこまでの衝撃は出せないみたいなんだけど、進路妨害になったりすることもあるから嫌って人もいるみたい。例えばこれは本物の犬じゃないから、犬アレルギーとかの人も大丈夫ではあるんだけど」
「あー……」
店の自動ドアの前、通貨していったシーズーに驚いて立ち止まったカップルがいた。彼らはビジョンの犬を蹴るような真似はしなかったが、それでも邪魔だと思ったのかしっしと手を振って追い払う仕草をしている。犬が嫌いな人に、このビジョンは結構なストレスだろう。
それにぶつかって怪我をしないとは言われていても、通り道に突然飛び出してきたらびっくりするのは間違いないわけで。
「あと、現時点ではリアルビジョンってなんとなく柔らかいとかなんとなくふわふわするくらいの感触までしか再現できないけどさ。いずれ、もっとがっつりとした物質化もできるようになるんじゃないかって言われてるんだよね。例えば……銃とか、ナイフとか、車とか」
その言葉で、いろいろ察してしまった。つまりこの素晴らしい技術は、使い方を誤れば軍事転用される危険がある、ということだ。
「ジオンド合衆国は、自衛隊はいるけどよその国とは戦争しませって、一応そういう法律は掲げてる。でも、守る為とはいえ軍事力を持っているのは事実なわけだし……どっちかというと国同士の小競り合いよりも、今は対魔族でピリピリしているからね。この技術を、マジで兵器にしようとしてるって人達もいるみたいだよ」
「……科学の進歩って、ほんと難しいところだよなあ。技術そのものに罪はねえ、あくまで悪用する人間が悪いってのは理解してるけど」
「そもそも兵器の転用でさえ、解釈次第では正義だから。……戦争って、本当のところは……誰かを傷つけたくて始めるっていうより、誰かを守りたいとか奪われたものを取り返したいとか、そういう名目で始まっちゃうものだからね。悪用しようとして悪用する人なんて本当に僅かなんだよ。殆どの場合は、正義と正義のぶつかり合いなんだから」
「そうかもな……」
犬たちが看板の中へ引っ込んでいく。ふと、見れば、こちらをじーっと見つめている一匹の犬がいた。小さなクリーム色のポメラニアンだ。まんまるの柴犬カットをされている。へっへっへ、と息をしながらニコニコ顔でこちらを見つめてきており、そっとミノルの足に前足をかけて構ってくれアピールをしている。どうやらこれは本物の犬らしい。
非常に可愛い。そしてハーネスにリードがついているということは、どこぞの飼い犬ということなわけで。
「ああ、ごめんなさーい!」
リードを持っていた小学生くらいの男の子が、ミノルに謝ってきた。
「クリーム、駄目だよ!よその人にじゃれついちゃー!」
「いや、いいよ。可愛いね。クリームちゃん?くん?」
「くん!オスなんだよ!人間が好きすぎて、みんなに撫でられに行っちゃうんだ」
「へえ。よしよし……」
ミノルがなでなですると、ポメラニアンは嬉しそうにミノルの手を舐めた。実に可愛い。まだ子犬なのか、オスにしてはだいぶサイズが小さかった。
「ミノルくん」
くい、と大空がミノルの服の袖を引っ張って来る。どうした、と思って彼を見れば、その目はやや険しい。見つめる視線はポメラニアンでもなければ、少年もない方向を向いている。
何かと思ってそちらに視線を向ければ、一人の女性が凄い顔でこちらを睨んでいるではないか。はっとした。もしや、飼い主の小学生の母親か誰かだろうか。
「あ、す、すみません!俺たちその、怪しいものでは……!」
少年と犬に危害を加えようとした、と誤解されたのかもしれない。ミノルが慌てて手を振って弁明すると、なんと女性は犬をさっと抱き上げて少年を叱ったのだった。
「
「え?ママ、なんで……」
「あんたね、いい加減覚えなさいよ!」
彼女はもう、ミノルたちの方は一切見なかった。完全に無視といった態度で、我が子に怒鳴る。
「魔族なんかと話しちゃダメって言ってるじゃない!クリームだって危ない目に遭わされるかもしれないのよ!?」
少年はまだ何かを言っていたが、母親は聴く耳を持たない様子だった。そして、そのまま引きずられるように二人は駐車場の方へ向かってしまう。ミノルはただ――呆然とその場に佇むしかなかったのである。
「……今の子、人間、だったのか」
「まずはそこから?」
ミノルの呟きに、大空呆れたように言った。
「この国、魔族より圧倒的に人間の方が多いワケ。でもって、学校の敷地を出たらほぼ人間ばっかりだよ。ましてや、ここもうトウキョウ自治区の外なんだから。……子供は魔族と人間を見分けられない子が多いけど、大人は見分けられる人の方が多いんだよ。言いたいこと、わかるでしょ」
「……ああ」
睨まれただけ。そして無視をされただけだ。それでも、ミノルは理解してしまうのである。今、魔族が魔族だというだけで、どれほど人間達に嫌われてしまっているのかを。
――ちくしょう。
小さな子供や犬は、何のしがらみもなく笑顔を向けてくれるというのに。
ミノルは暫く犬を撫でた手を見つめて、苦い気持ちを噛み潰すしかなかったのだった。