「くっそ、ざっけんじゃねえよ……!」
五條泰輔はそう吐き捨てながら、自らのシャツを絞っていた。
防御魔法をかけたものの、もしも下が岩盤なら骨折くらいは覚悟しなければいけなかったところである。川が流れていたのは、不幸中の幸いだったと言っていい。そして今の季節的に、水温が低くなかったのもラッキーと言えばそうなのだろう。
が、それでもいきなりジャージがびしょ濡れになったのは確かである。下に着ていた体操着も、下着までぐっしょりときた。それでやむなくすべての服を脱いで、水分を絞っているところというわけである。流石にこのまま来ていたら風邪をひいてしまう。幸い、周りは暗いし他に人もいないので気にしなくてもいいだろう。
そこまで長く流されたわけではない。ただ、この洞窟の通路が、どこまで続いているのかがよくわからなかった。この先に出口がなかったらどうしよう、と暗い気持ちになってくる。
幸い持っていた荷物も一緒に堕ちた上、防水していたおかげで鞄の中身の大半は無事だった。ランタンを灯しているし、スマホも何とか使える。救助を待つこと自体は可能だろう。
問題は、足を少しひねってしまったこと。
びしょ濡れになってしまったことで、思いのほか体力を持っていかれてしまったことだろう。とりあえず川から上がって、岩場の上で休憩することができているだけマシだが。
――本当に、最悪。林間学校なんか……休めば良かったか。
こんなもの、何の意味もない。
陽介を元気づけたいとかそんなことをミノルたちが考えているようだが、泰輔からすれば逆効果だとしか言いようがなかった。その理由は、彼らも既に思い知っていることだろう。
魔王学園アルカディアの人間が外に出れば、どのような目で見られるか。誰もがみずほ荘のご夫婦のように魔族に優しい人間ならば、どれほど救われたものであるか。
『触らないでくれます?』
サービスエリアでヤキトリを買い食いした時、店員に露骨に嫌な顔をされた。
若い女性店員は冷たく――同時にどこか怯えたような目で泰輔を見たのである。
泰輔自身、己がコワモテだという自覚はある。だから一般人に怯えられること自体は珍しいことでもなんでもない。慣れているといえばそうだろう。
問題はその態度が明らかに、泰輔個人に向けられたものではなかったということ。彼女は一緒にいた駆のこと(こう言ってはなんだが、彼は見た目だけなら人畜無害な少年でしかないはずだ)さえ邪見に扱っていたことから明白である。
『申し訳ないですけど。……あたし、呪われたくないので』
店員として、本来あってはならない態度に違いない。しかし、彼女の後ろに控えていたもう一人の男性店員も、女性定員の露骨な差別発言を咎めることをしなかった。つまり、黙認してもいいと考えていたということではなかろうか。
彼女はおつりを、泰輔の手に落とすようにして渡した。その手に触りたくないとでもいうかのように。
実際、その噂はネットでもよく目にするのだ。
『魔族の奴らって、魔法でなんでもできるらしいよ!例えば、手で触るだけでも相手を呪い殺すことができるとか!』
『若い女の子は特に気を付けた方がいいらしい。他人を言いなりにできる魔法は、接触するだけでかけられるって話があるからね』
『魔族マジ怖い。見た目もなんか怖いし、雰囲気も怖い。マジで何やってくるかわからないし、人間恨んでるから目があうだけで攻撃してくるかもよ』
人間たちは、魔法に関してあまりにも知識が乏しい。自分達が使えないのだから仕方ないと言えばそうなのかもしれないが、魔法=なんでもできるヤバイ凶器、みたいな扱いをしている者も少なくないのだ。
だから根も葉もない噂が広がる。
握手しただけで相手を呪えるとか、マインドコントロールの魔法がかけられるとか、そういうことをするやつがいるとかいないとか。店員の態度にムカついたものの、泰輔が相手の女性を睨むだけに留めたのはそういうことだった。彼らには真実を知る術がない、それはある種仕方ないことだと割り切らないといけない――それを知っているからこそ。
陽介も、どこかで似たような思いをしていてもおかしくない。駆も明らかにへこんでいた。
アルカディアの人間が外に出れば、嫌でも人間たちの差別と偏見の目に晒されることになる。ただでさえ四木乱汰の件で参っている者が多いのだ。中にはますます落ち込んでしまうタイプもいるだろう。ミノルのように、魔族がいない世界から来たお気楽な奴にはそれがわからないのだ。
「……くそっ」
何より忌々しいのは泰輔自身、魔族と人間が分かりあうことなんて本当にできるのだろうかと思い始めてしまっていることである。
泰輔自身、人間に対する優越感や差別意識があったことは否定しない。だがあの四木乱汰のゲームを経たことで、それとはまた別の感情が湧きおこるようになってしまったのだ。
自分達は本当に、共存するべきなんだろうか。そんなことが可能なのだろうか。
魔族は本当に危なくないと、人間達にどうやって証明すればいいのだろう?
『だから、乱汰のものにしてあげたいと思ってるんですう。映ちゃんも、すげえ男な乱汰のものになったら世界で一番幸せですからねえ』
乱汰の、あまりにもイカレた言動を思い出した。
中学時代、ほのかちゃん、という相撲部のマネージャーがいた。その女の子に片思いをした乱汰が、「最強で最高の男である自分のものになれ」と命じたところ彼女に派手に拒否られたため、大暴れして相撲部を退学になったと、そこまでは聞いている。
この国には魔族専用の中学もあるし、どちらも受け入れている学校施設も複数存在する。だから、乱汰がどっちのタイプの学校にいたかまではわからない。
だが彼は間違いなく一度暴力事件、強姦未遂事件を起こして相撲界を追放されている。その話は、実際に人間が致命的な巻き込まれ方をしていなかったとしても、人間達の間で有名になってしまっていた可能性が高い。
――俺様たちは、あいつとは違う。あそこまでイカレてねえし、無理矢理誰かの心をねじまげて自分のものにしようだなんてしていない。でも……。
その気になれば、そういうことができてしまう。
そういうことを実行可能な力が、ある。
人間達がそれを知れば、怯えるのは当然だ。何より泰輔自身、欲望に任せて滅茶苦茶やった経験がないとは言い切れないのである。
さすがに性犯罪まがいなことはしていない。でも、ムカつく奴は躊躇いなくブン殴ったし、パシリもさせたし、万引きを強要したこともある。そういう破壊的衝動を我慢するべきとも思っていなかった。悪いのは、強い自分を苛立たせる連中だ、だからこの拳には正当性があるのだ、と。
そして、ミノルに対してもそうだ。
もしあのゲームに勝っていたら自分は、己を継承者にするようにミノルに命じていたはずで。それは彼の意志を捻じ曲げることに他ならなくて。そのために――最終的には彼の心を無視して体を繋げることを強要していたはずなのである。
だから、思ってしまったのだ。
自分は乱汰ほど馬鹿でもないしイカレてもいない。でも、自分がやろうとしたことはどれほど乱汰と違うのだろうか、と。
そして、そういう人間がもし魔族に多数存在するのであれば。魔族を迫害するべし、という人間達の考えも間違ってはいないのではないか、と――。
――そんなわけねえ!俺様は……四木の馬鹿野郎とは違う!それに、あの滅茶苦茶な事件はあくまで四木本人がトチ狂っていたってだけだろうが!俺様たちみんながあんな……あんなとんでもないことをするわけじゃ……!
自分は何のために此処にいるのか。そして、一体これからどうしたいのか。そもそも己に、何かできることがあるとでもいうのか。
考え始めてしまえば、もうぐるぐると同じ場所を巡ってしまって止まりそうにない。早くここを脱出するなり、助けを求めるなりなんなりしなければいけないのに。
「……はあ」
ランプは温かい熱を発するタイプである。濡れた体を熱でかわかしながら、泰輔はため息をついた。
「……助け、呼ばねえとなあ」
タオルで手をぬぐい、スマホに手を伸ばした。少し画面に傷はついてしまったが、スリープを解除すればちゃんと明るくなるし動きにも支障はない。充電も、まだしばらくはもつことだろう。
一番最初にやるべき〝救助を呼ぶ〟という工程を、泰輔はまだすっ飛ばしていた。忘れていたのが半分、やる気が出なかったのが半分。自分でも思っていた以上にメンタルがキてしまっている。このまま朽ちるのも悪くないかな、なんてことが頭の片隅に過ぎってしまうほどには。
『いいか、泰輔。必ず、必ず次の魔王に選ばれるのだ。それこそが、我が五條家再建、唯一の道になるのだからな!好きなことがあるなら、魔王になってから好きなようにすればいい。いいな?』
何度も何度も聞かされてきた父親の言葉。ちょっと前まではそれを果たそうと躍起になっていたはずだというのに。
――魔王になれば世界が変わるのか?……多分、そんなこともないんだろうな。
スマホに指を滑らせ、チャットアプリを起動させる。とりあえず、駆に連絡を入れることにした。スマホを見ていないかもしれないが、無事である一報だけでも必要だろう。
彼は泰輔が空を飛ぶ魔法が使えないことも知っている。それなりに心配はしてくれているはずだ。
『駆、今穴の底。水が流れてて流された。足ちょっと捻ったけど無事だ』
すると、すぐに返事が来た。
『うわあああああああんん五條さあああああああああん!ぶぶぶぶ、無事で良かっdすよいああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!1!!!!11!!!!』
興奮しすぎだし、誤字もしまくってるし、一体いくつビックリマークをつけるつもりでいるのやら。打ち間違えて時々1になっているし。
『今先生のところに向かってるところです!!!!!!!!!gつぁすけてくれって言いにいきますので安心して待っていてくださあいあああああ』
『わかった、わかった、落ち着け。先頭グループも最後尾グループもだいぶ離れちまってたからな、追いつくの大変だろ。無理すんじゃねえ。お前が怪我したら意味ないからな』
『優しい……五條さんが優しいぃぃ……超感激ですう』
それから、と彼はメッセージで続けた。
『五条さんを助けてくれって、その、一倉と千堂に頼みました。あいつら空飛ぶ魔法使えるから。……ボクの判断で、すんません』
「……なに?」
思わず現実で声に出してつっこんでしまう。よりにもよってその二人に救助を頼んでしまったのか、と。
確かに文句が言える立場ではない。だが、自分達が犬猿の仲であることは駆とてよく知っているはずなのに。
「……マジかよ」
そうこうしているうちに。
泰輔が流されてきた川の上流の方から、複数人の足音と話声が聞こえてきたのである。