「ど、どうしたんですか柊さん」
「いえ、少しだけお化粧崩れてきちゃったわねー、ご飯食べたのもあってリップも取れちゃってるわ」
私が慌てて少しだけ身を引けば唇から指を離して柊さんは自身の鞄を漁り出す
「あ、ごめんなさい……」
気付かなかった
普段から化粧をすること自体がないからそんな簡単に化粧というものが崩れる、という認識もあまりなかった
そんなことも知らずに大手を振って道を歩いていたことに途端に恥ずかしさが込み上げてくる
「何も謝ることないわよー、お化粧って崩れるものだから大丈夫よ、慣れないうちは仕方ないわねー、そんなにおもいきり崩れてるわけでもないからそんな顔しないの、ちゃんと化粧直し用の道具は持ってきてるもの、本当はパウダールームとかで直したいんだけど、あたし女子のお手洗いには入れないから、端のほうで簡単に済ましちゃいましょうか」
そんな私の心境をあっという間に察してしまって、柊さんは笑顔で私にそう語りかけてくる
「……お手数おかけします」
柊さんの言葉を聞くと、それだけで少しだけ、勇気を貰えるから本当に不思議だ
私は言われるままに顔を柊さんのほうへ向ける
「少しもお手数なんて思ってないから気にしないで、それよりも、しっかりこっちを見てて頂戴ね」
「は、はい」
そして柊さんは真剣な表情で私の顎に手を掛けると顔をぐっと覗き込む
柊さんの綺麗な金髪が靡いて、光のカーテンみたいで、朝、初めて柊さんにお化粧をしてもらった時も見たその景色に、やっぱり私は慣れなかった
「はい、これでお仕舞いよー」
柊さんは慣れた手付きで化粧を直すとリップを差して、最後にフェイスパウダーをはたいて私から顔を離すと手早く化粧をポーチにしまっていき私の手に鏡を置く
「……ありがとうございます」
私はお礼を伝えながら鏡を覗き込む
鏡に映った私は朝、柊さんが作り上げてくれたそのままで、少し前までこれが崩れていたなんて実際に見ていない私からすればあまり想像もつかないことだった
「最初のほう、始めたばかりの時はいきなりデパコスとかじゃなくてプチプラとかのほうがいいわねきっとー」
柊さんは私の手の上から鏡をひょいっと受け取ると思案げにそう呟く
「……何の話ですか?」
いきなり繰り出されたその話題に付いていけなくて私は率直に聞き返す
あまり、良い予感はしない
「あなたよあなた、自分で言ってたじゃない、化粧はしないって、だから化粧品も持ってないだろうと思って、だから今度あたしが使いやすそうなやつ見繕ってあげるわ」
柊さんは言いながらにこっと笑ってこちらを見る
「……え、あの、いや、大丈夫です、そんな」
私は慌ててそれを断る
「……今日のあなたの完成度はどう?」
それを聞いた柊さんはふと、少しだけ逡巡した後にそんなことを聞いてくる
「……どうって」
はっきり言って普段の自分とは全く違うと自分でも思っている
それもこれも全て柊さんが時間を費やして施してくれたからだ
「最初に鏡を見たとき、驚いていたでしょ? 今もそう、だから、今のあなたを百の完成度だとして、あたしが毎回毎回百の完成度まで持っていってあげるわけにもいかないでしょう? だから、教えてあげられることは教えてあげるから自分でも出来るようにしましょうってこと」
そして柊さんはそれだけ言うとまた人を惹き付けるその顔でニコッと笑ってみせる
「わ、私は、その、別に普段から化粧したいわけではないので、今回のことだけで充分ですよ」
だけど私はそれを速攻で断る
確かに今の自分を見て驚いたし、感動したのは事実だ
だけど、それは柊さんの力があったからこそで、私自身だけの力でここまで持ってこれる気は欠片もしないしする気もない
いや、する気がないというよりは、出来ないと言ったほうが早いだろう
だって、結果としては私は私なのだ
出来ないし、出来たとしてもその状態で独りで外に出る勇気なんてものは持ち合わせていないのだ
今だって柊さんがいるからこうして外を歩けているようなものなのだから
「……磨くって言ったのは、あたしが施してあげるだけのことを言ったわけじゃないのよ、せっかくそんな綺麗な原石持ってるんだから、勿体ないじゃない」
柊さんはまた、以前と同じことを言った
あの時と同じ、変わらぬ様子で
「……」
私はつい、黙り込んでしまう
そもそも、柊さんは綺麗な原石何て言うけれど、私は元々そんなに良いものではないのだ
本当に柊さんがどこをどう見てそう言ってくれているのか、それだけは分からない
「……まぁ、別に無理にやれなんて言わないわ、この多種多様な世界で女の子だから化粧しないといけないとか、男だから化粧したらいけないとか、そういうのはもう古いもの、でも、あなたは……したくないとか、そういうところから来るものじゃないでしょ? それなら、やりたいことをやりたいようにやったほうが絶対に良い」
黙り込んでしまった私を気遣うように柊さんは優しい声色で淡々と、そう語る
「……そう、ですよね」
確かに、そうだ
私は別に、元々化粧自体をしたくないわけではない
それどころか服を映えさせるひとつの手段として好印象さえ持っているし、本当にたまにではあるがそういう雑誌を見ることだってある
それでも、私は
どうしても最後の一歩を踏み出すとことが、いつだって、出来ない
「……ちょっとお節介が過ぎたわねー、すぐ調子に乗っちゃうところがあたしの悪いところね、とりあえず歩きましょうか、別に急かしてるわけでも、無理させたいわけでもない、だからそんな顔しないで、折角の美人さんが勿体ないわよ?」
柊さんは散々に迷って、視線をキョロキョロと彷徨わせていた私にそう言って、慣れた手付きで優しく頭に手を置いた
「ご、ごめんなさい……」
「だから謝る必要なんてないのよ、もう謝るの禁止にしちゃうわよー、あ、ゲームセンターあるわよ! ちょっと寄っていかない?」
咄嗟に謝る私に柊さんは笑ってそう返す
それから暫く歩いていれば商店街の一角に大きめのゲームセンターが見えてきて、それを見つけた柊さんは親指でそのお店を示しながら聞いてくる
「……あ、はい! 柊さんゲームセンターとか行くんですね」
特に断る理由もないので私はそれを許諾する
少しだけ重くなった空気を壊すのにもきっと丁度良い
それから柊さんに聞き返す
あまり柊さんがゲームセンターとかに行くような様子は想像することが出来なかったからだ
「あら、こう見えてあたしけっこうクレーンゲームとか得意なのよー、この歳だけど知り合いとプリクラ撮ることも多いから意外とゲームセンターにはよく来るの、鈴奈さんはあまり来ない?」
そうすれば柊さんから意外な事実を教えられ、その流れで柊さんに聞き返される
「……そう、ですね、普段から休みも外出とかほとんどしませんから、来るの自体かなり久しぶりです」
最後にゲームセンターに来たのはおそらくまだ家族が全員揃っていた時
それ以降、独りになってからは一度も脚を運んだことなんてない
だからおそらく何年ぶりとかそれぐらいの単位の話
そもそも普段は仕事に行って、帰って、休みの日は自宅で過ごす、出掛けるとしても近くの本屋とかそれぐらいで、出掛けること自体がほとんどない
「そうなのねー、やっぱり鈴奈さんは真面目ねー」
「まぁ、別にそういうことではありませんけど……あ」
柊さんは何か勘違いしたのか私の名前を呼んでふむふむと頷く
別にゲームセンターに行くことが不良行為とかそういう風に考えているわけではないのでそこは訂正したい
だけど、訂正する前に私はとあるクレーンゲームの中に陳列された景品に目を奪われる
「どうかした?」
柊さんは私の視線を追ってその筐体の中に視線を移す
「これ、私の好きな小説に出てくるキャラクターのぬいぐるみです」
それは学生の頃からよく読んでいた児童文学に出ていた主人公の飼っていた狐のぬいぐるみだった
最近映画化したという話は聞いていたがまさかグッズまで出ているということは知らなかった
「取ってあげましょうか? それとも自分でやってみる?」
柊さんはその筐体の前まで歩いていくとコントロールパネルに手を置いてそう聞いてくれる
「……自分でやってみます」
私は覚悟を決めると鞄から財布を取り出して、百円玉を一枚カチャンっと音を立てて投入した
「……」
それからどれくらい経ったろうか
財布に入れていた千円札が二枚はすでに無くなっているというのに全然取れる気配がしない
「……大丈夫?」
黙って考え込む私に柊さんが労るように声をかけてくる
「あ、はい、ただ、まさかここまで下手だとは思わなくて少しだけショックで……お待たせしてすいません、行きましょうか」
私は柊さんに何とか笑いかけながらもこれ以上は無駄だと察して財布を鞄にしまう
別に普段から何かにお金をつぎ込むことはしないから二千円と少しはそこまで痛手ではない
だけどぬいぐるみが取れなかったことは少しだけ悲しい
「普段やらないなら仕方ないわよー、ちょっと貸して頂戴?」
筐体から離れようとする私に代わって今度は柊さんが筐体の前に立って百円玉を一枚投入する
「柊さん?」
私は名前を呼んで、隣から柊さんがプレイするのを観察する
「こういうのはねー、重心を考えると良いのよー」
柊さんは慣れた様子でボタンを押してアームを操作していく
そして
「ほら、こんな感じ」
ぬいぐるみの大きな頭にアームを引っかけるとそのままくるんっと前に倒して簡単にゲットしてみせる
「柊さん、すごいです……!」
景品獲得の音楽が鳴るなかぬいぐるみを景品口から取り出す柊さんに私はつい感嘆の声を漏らす
「そう? 褒めても何も出ないわよー、なんて、はい、これあげるわ」
柊さんは言いながらそのぬいぐるみを私の方へと差し出してくる
「……え、いいんですか?」
これは柊さんがゲットしたのだ
頂いてしまっていいのだろうか
「元々あなたにあげるために取ったんだもの、貰ってもらえないとそっちのほうが困っちゃうわ、あたしその本読んだことないし、ほら、猫ちゃんもそっちに行きたいって言ってるわよー」
悩んでいれば柊さんはくすくすと笑いながらそう言って今度はぬいぐるみを私の身体に優しく押し付ける
「あ、ありがとうございます……」
私はお礼を言いながらぬいぐるみを受け取るとぎゅっと抱き締める
久しぶりに触ったそれは、ふかふかしていて、とても柔らかかった
「いいのよー、勝手にあたしが取っただけなんだから、それじゃあ次のお店行きましょうか?」
柊さんはそれだけ言うとゲームセンターの外に向かって歩きだす
「はいっ……! あ、あと、このキャラ狐です」
私はそれについていきながら一応間違いを訂正しておく
「あらそうなの? ごめんなさい間違えちゃったわー」
そんな私の言葉に柊さんは少しだけ驚いたように目を開いてから、からからと笑って楽しそうに謝る
その頃には場の雰囲気は、出掛けてすぐの時のようなほがらかとしたものに、戻っていた