目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第28話 穏やかな日常

 カシッ

 軽い音を立ててプルタブを上に持ち上げる

「……はぁ」

 私は一口そのシュワシュワとした微炭酸を口のなかに流し込んで飲み下すと息を軽く吐き出す

 この人工感の強い味が私は好きだ

 だけど、朝からこんなもの……エナジードリンクを飲んでいるところなんて柊さんに見られたらなんて言われるか……

 いや、そもそも飲んでいるところを見つからないように朝っぱらから飲んでいる感まで最近はある

 あの日、渡されたコーヒーは珍しく加糖のものだった

 ただどこか思うところがあって間違えたのか、それとも頭がよく回るようにわざと選んでくれたのか、それともどちらでもないのか

 そこまでは私には分からない

 分からないけど、私にコーヒーを渡した柊さんはそのままオフィスを出て、廊下で待っていた

 このままギクシャクした関係になってしまうのか、なんて思案したりもしたけど、仕事が終わってオフィスから出た先に待っていた柊さんを見てそれが杞憂だったことを知った

 柊さんはいたっていつも通りだったから

 私だってその頃にはいつも通りだったし、だから、そのよく分からないやり取りは自然となかったことになった

 今日でルームシェアを始めて約二ヶ月

 長いようで短いそれは、私にとっては安寧の地のようなものだった

 あのカッターの一件以来ストーカーの男とは一度も出会っていないし平穏そのもの

 だけど、四年以上も付きまとっているような相手だ、油断は出来ないことはしっかりと理解している

 もう一口、エナジードリンクを煽ろうとしたけど別の手によって缶を押さえられたことでそれは叶わなかった

「……柊さん」

 私は缶を押さえた相手の名前を呼んで抗議するように視線を向ける

「いけない子ね、こんな朝から隠れてこんなもの飲んで、もしかして普段からしてたりする?」

 だけど柊さんは怯むことなくそんなことを言いながらやんわりと私から缶を取り上げてしまう

「……たまに、ですけど」

 嘘が得意ではない私は詰められれば本当のことをはなすしかない

「あら、そうだったのねー、残念ねー、これからエナジードリンクを飲んだ日はそれが朝ごはん代わりねー」

 柊さんは言いながらちゃぷちゃぷと中味の残った缶を揺らす

「……エナジードリンクだって決して悪いものでは……あっ……」

「そんなこと分かってるわよ、冗談、でも、あんまり過剰摂取するのは止めてちょうだいね? 心配になっちゃうから」

 私がエナジードリンクの擁護をしようとすれば柊さんさ持っていた缶をぐっと煽って中味を全て飲み干してしまう

 そしてそれから私に釘を刺すようにそう言って笑う

「……善処します」

 柊さんが心配してくれているのは理解しているが好きなものは好きなのだ

 流石に私も致死量程は飲んでいないのに

 さようなら、私のエナジードリンク

 私はゴミ箱に放り投げられた空の缶に悲しみのお別れを心のなかで伝える

「良い子ね、さてと、それじゃあ朝ごはん準備するからちょっと待っててねー」

 柊さんは言いながらふらふらとキッチンへと入っていく

 二ヶ月ルームシェアをして知ったことは

 柊さんは低血圧であまり朝が得意じゃないということだ

「朝、弱いんですから無理しなくていいんですよ、あれなら私が用意しても――」

「それは大丈夫、安心して、ちゃんとあたしが準備するから」

「……分かりました」

 だからこうしてたまにそんな提案をしてみるのにいつも返ってくる返答は同じで、その度にフルーツの用意ぐらいだったら私でも出来ると少しだけ心のなかでふてくされる

 でも、そんなことすら出来なかった今までを考えれば、心のなかだけでもこれだけおしゃべりに戻れたことは素直に喜びたい

 それだけ私にとってストーカーというのはストレスだったのだろう

 逆にストーカーがストレスにならない人のほうが稀有ではあるだろうけど

「さてとー、今日の予定はショッピングねー、何着てもらおうかしらー」

 私が椅子に座るとキッチンのほうからフルーツを切りながらふんふんと楽しそうにそんなことを言う柊さんがよく見える

「……私は着せ替え人形じゃないんですけど」

 映画に一緒に行ったあとも私達は会社が休みの日なんかはたまに一緒に出かけることがあった

 だいたいは柊さんに誘われて、今まで私が生きてきてあまりしてこなかった色々なことを教えてくれる

 代わりといってはなんだが柊さんとのお出掛けはまずは私を磨くところから始まるのだが

「そんなこと分かってるわよー、ま、でもあなたの着せ替えで楽しんでるのは事実ね」

 柊さんは私の訴えに笑って、それから否定するどころか肯定してしまう

「柊さん……」

「だって、今まではどれだけ買ってもあたしには着れない服達だったから、服達も着てもらえて本望だと思うわよ?」

 私が呆れたように名前を呼べば柊さんは悪びれもせずにそんなことを言ってくる

 それを言われれば服飾についている私は何も言い返せないのを柊さんはよく分かっている

「……それなら柊さんが着ればいいじゃないですか、最近はそういうのも昔よりも順応してきてますから、この国も」

 私はふと、前々から考えていたそれを提案してみる

 昔はそういう文化とは程遠かったこの国も、最近は昔よりも息苦しくなくなってきたとよく聞くことがある 

「残念だけどあたしはかわいい服は好きだけど、女装する趣味はないのよねー、ま、かわいいとは思うけど」

「そうなんですか?」

 柊さんの答えに私は率直に驚いてしまう

 柊さんは、こういう喋りかただし恋愛対象は男性のはず、だからこそ、そういう服も着たいけど我慢しているものだとばかり思っていた

「ええ、さ、出来たわよー、今日はアサイーね」

 私が考えているうちにも柊さんは完成させた朝食を机に並べる

 相変わらず朝食はフルーツだ

「確か、初めて食べさせてもらった朝ごはんもアサイーでしたね」

 そして、なかば転がり込むようにこの家にお世話になったあの日の朝食もアサイーだったはず

「あら、よく覚えてるじゃないの」

 柊さんは椅子に腰掛けながら少し驚いた様子でそう返してくる

 柊さんは流石に覚えていなかったのだろうか

「アサイーボウルなんて食べたの初めてでしたから、思ってたよりも美味しくてびっくりした記憶があります」

 そう、そもそも栄養食、エナジードリンク、ジャンクフード最高派の私がアサイーボウルなんて洒落たものを食べたことがあるはずがない

「そんなに気に入ってくれてたなら今度からもう少し頻度あげるわね」

「ありがとうございます」

 柊さんの提案は素直に嬉しい

「さ、食べましょー、今日も忙しいんだから」

「はい」

 柊さんは言うが早いかアサイーボウルをぱくりと口に含む

 それに続いて私もアサイーボウルを食べ始めた

 こんな、穏やかな日常が続けばいいのにと、思ってしまうこと自体がフラグになる、頭のなかでは理解していてもどうしてもそう、最近は特に、考えてしまうのだ

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?