出産予定日の二週間前には、日本に帰国できるように調整していた。なんとしても日本に帰る。その一心でがむしゃらにフランスでの日々を過ごした。
「男性Ωの場合は、ほぼ出産予定日に陣痛がくるものだから」
電話越しの秋里の言葉を信じていた。それなのに、予定日の三週間前の朝、突然「明日あたり産まれそうだ」と言われてパニックになった。
「え!? そ、そ、そんな……」
ほぼ出産予定日に産まれるんじゃなかったのか? 何でこんなに早いんだ? 何か問題があったのか?
「ど、ど、どうしよう……」
顔面蒼白でスマートフォンを握りしめる俺を見かねたフランス人の同僚が「大丈夫か?」と声を掛けてくる。
「こ、子供が産まれそうなんです……」
みっともなく震える俺の肩を同僚が強く叩いた。
「今すぐ日本に帰れ!」
その声で我に返った。差し迫った仕事を振り分けてもらい、慌てて日本へ帰る準備をする。小さめのボストンバッグに必要最低限のものだけを放り込んで、昼過ぎには飛行機に乗ることが出来た。
妊娠が発覚してからずっと何も問題はなかったのに、どうしてこんなに早く産まれるんだろう? 男性Ωは安産なんだよな?
今頃、柊はどうしているだろう。苦しんでいるだろうか。一人で痛みに耐えているのだろか。代われるものなら代わってやりたい。待ち受けの柊を見ながら、スマートフォンを持つ自分の手が冷たくなっていくのが分かった。
飛行機に乗り、座席に腰を下ろした瞬間に寝るという特技を身に着けたのは、日本とフランスを行き来するようになってからだ。いつもならすぐに瞼が落ちてくるのに、今日は眠くなる気配すらなかった。
機内食を出されても食べる気にはなれず、一睡もできず、ひたすらスマートフォンを握りしめたまま、座席で身を固くしていた。
秋里から「陣痛が始まった」と連絡があったのは、日本に着く一時間前のことだった。搭乗口から急いでタクシーに乗り場に向かう。運転手に病院の名前を告げて、小さく息を吐いた。
二十分あれば着くはずだが、タクシーの進みはのろのろと遅い。「工事中ですね」と運転手がミラー越しに言う。『この先、片側通行』という看板を目にして、電車にすれば良かったと後悔したが、今更どうしようもない。
タクシーはゆっくりと進み、停車した。しばらくすると少しだけ進んで、また停車する。その繰り返しだった。車内でじっとしていることが苦痛になってきて、とうとう我慢できずに「ここで降ります」と運転手に告げた。
支払いを済ませて、小さめのボストンバッグを掴む。車から降りた瞬間、俺は地面を強く蹴って走り出した。
あっという間に息が切れた。苦しい。走らなくなって一年と三ヶ月。もう自分が選手ではないことを改めて知る。体が走り方を忘れていた。
走ることが好きだった。速さを競う競技なのに、タイムなんて関係ないと思うことさえあった。それくらい、ただ走ることが好きだった。
でも、今は早く走りたい。今までで一番、早くゴールに辿り着きたかった。
◇◇◇
へとへとになりながら病院に着くと、秋里に「どうしたんだ? きみ、ズタボロだぞ」と言われた。
「柊……は、どう……こ、こども、は……」
息が整わない。はぁはぁと肩で息をしながら秋里に訊ねる。
「産まれたよ」
「う、う、産まれた……? も、もう……?」
「男性Ωは安産だって言っただろう」
得意気な顔をする秋里を、俺は軽く睨んだ。ほぼ予定日に陣痛が来ると言ったのに、ぜんぜん違ったじゃないか。
「どうした、怖い顔して。そんな顔で子供に会うつもりか?」
「……こ、こども」
秋里に案内され、ガラス越しに新生児室を覗く。ふかふかのベッドの上に、赤ん坊が並んで寝かされていた。皆、水玉模様のベビー服を着ている。男の子はブルー、女の子はピンクだ。
産まれたばかりの赤ん坊は皆同じ顔にしか見えず、どの子が柊の産んだ子なのか判別できない。ガラスに張り付いて目を凝らしていると、横にいる秋里が「一番、右の子」と言った。
一番、右……。
あ、あの子だ! ピンクのベビー服を着た、あぁ、あんなに小さいのに、かわいい。皆同じ顔だと思ったが、それは俺の間違いだった。完全にどうかしていた。あの子だけ他の子とは全然違っている。
かわいい。柊に似てすごくかわいい。目を閉じたまま、むにゃむにゃと小さな口を動かしている様が柊にそっくりだ。他の子は行儀良く寝ているのに、あの子だけ豪快な寝相だったが、そこも柊と重なる。
それに、まん丸に膨らんだ頬。
熱々のスープをふうふうしているときの柊と、まったく同じ顔だ。
「し、しゅうに、柊にそっくりだ……」
気づいたら俺は泣いていた。力が抜けて膝から崩れ落ちる。号泣しながら「柊にそっくりだ」と繰り返す俺を見て、秋里は若干引き気味だった。
「いや、違うだろ。きみにそっくりだよ、どう見ても。将来は美人になるだろうなぁ」
造形じゃなくて仕草とか雰囲気の話をしてるんだよ。そう訴えたくても嗚咽が止まらず言葉にならない。新生児室の窓に縋りながら、俺の涙はしばらく止まらなかった。
病室の扉を開けると、柊は眠っていた。
初めての出産で疲れたのだろう。何も出来なかった。代わってやることも、そばにいて励ますことも。
「……ごめんな」
きれいな寝顔だった。雪のように白い柊の顔。静かに眠る彼を神々しいと感じた。マリア像のようだとも思った。
ベッドの脇に置かれた椅子に座る。柊の寝顔がきらきらしている。それを見ていると、なんだか全身の力が抜けていくようだった。急に瞼が重くなってくる。
「柊、ありがとう……」
それだけ言うと、俺はベッドに突っ伏すようにして眠りに落ちた。