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第17話 美しい鋼

 αと番になって、症状を安定させる方法しか自分には残されていない。


 泣いても喚いても、その事実は変わらないので受け入れるしかなかった。


 番を得て、症状が安定した後に社会進出するΩは少数だが存在する。免疫不全が無くなれば、それはもうβと同じようなものだ。


 そう考えると希望が持てた。


 自分は須王の跡取りだ。免疫不全を克服して、僕が須王を継ぐ。自分の未来に、やっと光が見えた。


 暇さえあれば勉強していた。将来、須王を継ぐために学歴は必要だ。


 毎日学校へ行っているαたちより成績が良いことは、密かに自慢だった。放課後になると図書室へ行き机に向かう。


 勉強しながら、よく自分の頬をムニムニと揉んだ。夕方になると表情筋が悲鳴をあげる。


 作り笑いで酷使しているからだろう。ピクピクと攣りそうになる頬を揉みながら、窓の外を見ると体育科の生徒たちが見えた。


 陸上部の集団がトラックを走る様子を見て、自分が最後に全力疾走したのはいつだっただろうかと考える。足は速いほうだった。Ω判定を受ける、ずっと前のことだけど。



◇◇◇



 気づいたら、図書室の窓の外は薄暗くなっていた。


 今日は集中して勉強が出来た。帰る準備をして、そっと窓の外を見る。目を凝らすと人影が見えた。


「まだいる……」


 一人で黙々と走る姿を見つけて「よく飽きないな」という感想を今日も抱く。その人の姿を見つけたのはつい最近のことだ。


 毎日のように一人で残って練習をしているので、よほどの劣等生なのだろうと最初は思った。


 でも、違った。ただ好きで走っているのだと分かった。


 トラックを何周か走って、彼は自分の腕時計のタイムを確認した。天を仰ぐようにして、それからがっくりと肩を落とした。肩を落としながら、それでも笑っていた。


 またダメだったよ、と口が動いたように見えた。照れたように頭を搔く長身の男の顔が、なぜか頭から離れなかった。


 カフェテリアで制服姿の彼を見て、上級生だと分かった。


 体つきで、αだということは一目瞭然だった。名前は分からない。


 体育科の人間に知り合いはいなかったし、知り合いがいたとして、どうしたらいいのか、自分がどうしたいのか分からなかった。


 陸上でαといえば、短距離というのが僕のイメージだった。スタートした瞬間からスピードで圧倒する。βではまるで歯が立たない。肉体的に恵まれたαはかなり有利だった。


 それなのに、なぜか彼は長距離選手だった。αであることのアドバンテージを活かせない彼は、劣等生ではないものの優秀な選手というわけでもないらしかった。


 大会で活躍したりプロ契約を結んだりすると、カフェテリアの入口に新聞記事が貼り出される。


 彼の記事は一度も見たことがなかった。


 放課後、図書室で息抜きと称して陸上部の練習を盗み見る。いや、違う。盗み見ではない。


 別に意識して見ているわけではない。勉強に休息は必要だし、たまたま僕は窓の外を見ているだけだ。そこで偶然、陸上部が練習しているだけ。


 ふいに、彼が上半身裸になった。


 心臓が飛び出しそうなくらいに驚いた。どうして裸になるのか、何が起こったのだとパニックになっていたら、ただ着替えているだけだと分かった。


 逞しい体だった。美しい鋼のような筋肉に覆われている。


 じわりと自分の顔が熱くなったのが分かって、慌てて目を逸らした。もう見ていないのに、筋肉質の体がちらちらと頭に浮かんでくる。苦しい。心臓がバクバクする。


 ある日、カフェテリアの入口で彼の記事を見つけた。


『8位入賞・春名宗一郎(須王学園)』


 雑誌の小さな切り抜きだった。はるなそういちろう、と心の中で何度もつぶやく。


 毎日、その記事を見た。昼休みにカフェテリアへ行くときは、必ず足を止めてそれを眺めた。


 しばらくすると、彼の切り抜きが剥され、新しい別の誰かの記事に変わろうとしていた。


 記事を貼りだす作業中の教師に「古い記事はどうするんですか」と訊いた。「処分するよ」と言われたので、微笑みながら手伝うふりをして、彼の記事をポケットに仕舞い込んだ。


 ポケットに入れたせいで、くしゃりと皺の入った彼の記事。


 自宅の勉強机の上で、皺になった記事をせっせと手で伸ばした。勉強したいのに、彼の記事がすぐそばにあると思うと、何も手につかなくなる。


 彼のことになると自分はおかしくなる。なぜなのか。その理由は、ひとつしかないような気がした。


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