宗一郎さんとの縁談は、順調に進んでいる。
彼が高校を卒業したら籍を入れる予定だ。自分も彼と同じ「春名」になるのだと思って、しばらくの間、一人でこそこそと「春名柊」と書く練習をしていた。
書きながら、むふふと笑みが零れる。
祖父に「柊は須王のままだ。彼が須王になるんだ」と言われるまで、僕は毎日、その名前をノートにしたためていた。
宗一郎さんとの結婚が決まってから、僕の心は軽くなった。免疫不全の症状はいずれ無くなるだろうし、そうなったら、やっぱり大学へ行きたいと思う。
祖父を説得する気力がどんどん湧いてくる。彼が卒業する日を、僕は指折り数えながら待っていた。
そんなある日、僕は宗一郎さんの友人だという体育科の生徒に呼び出された。
「お前が悪いんじゃないって分かってるけどさ。あいつが頑張ってるの見てたから、納得できないんだよな」
そう言って僕を見据える彼は、鈴江と名乗った。
「納得? どういうことですか?」
彼は僕を少し睨んで、それからふっと息を吐いた。
「……せめて二人きりでいるときは、気疲れしないようにしてやってくれない? あいつ、繊細なところがあるから。普通の家しか知らないし、須王の家に入るのしんどいと思うんだよ」
慣れない生活で、彼が言うように宗一郎さんが気疲れしてしまうなら、それは嫌だ。自分の家が普通でないことは何となく理解している。
「わかりました。それで、普通とは一体どういう感じなのでしょう? 僕は普通の家を知らないので。あ、ちなみに、お手伝いさんの数は何人ですか?」
一般家庭というものが想像できない。
「はぁ? ゼロだよ! 普通の家にお手伝いさんがいるわけないじゃん!」
「え!? そうなのですか?」
お手伝いさんのいない家が存在することに衝撃を受ける。
「掃除も洗濯も自分でするもんだからな」
「自分で……?」
掃除で一日が終わりそうだ。やったことがないので、きっと要領も悪いだろうし。
「普通は3LDKとかに住んでるから、そんなに時間はかからないんだよ」
聞けば、鈴江の兄は結婚したばかりらしい。夫婦二人で「しゃしゃく」の3LDKに住んでいるという。
「結婚したら、その『しゃしゃく』というところで暮らすのが通常なのですか?」
「社宅だよ、社宅。会社が用意してくれんの」
そういうものがあるのか。知らなかった。
「社宅なら、宗一郎さんは気疲れしないのでしょうか」
「まぁ……須王の家で暮らすよりは良いだろうけど。でも無理じゃね? お前が社宅で暮らすとか」
そんなことはない。社宅での生活がどんなものかは知らないが、絶対にできる。いや、絶対にしてみせる。宗一郎さんのためなのだ。
それに、お手伝いさんがいないということは、完全に二人きりだ。宗一郎さんと二人。それは、良い。とても素晴らしい。
絶対にできる! 普通の暮らし! 社宅暮らし!
帰宅してすぐ、僕は祖父に「結婚したら社宅で暮らします」と宣言した。初めはまったく相手にされなかった。「柊には無理だ」と一蹴されたが、僕は諦めなかった。
「どうして無理なのですか?」
「そういう生活に慣れていないからだ」
「そのうち慣れます」
祖父が渋い顔をする。
「免疫不全はどうするつもりだ? 体調が悪くなったとき、手伝いの者がいないと不便だろう」
「どうしても手伝いの方を必要とする場合は、アプリで申請します」
行政にはΩを支援する仕組みがある。病院に付き添ってくれたり、家事代行のようなことをしてくれたりするサービスがあるのだ。庶民の暮らしについて調べていくうちに知った。
すぐにアプリをダウンロードした。登録も済ませているので、いつでも使用できる。
祖父には「須王の人間がそんなものに頼るな」と怒られたが、素晴らしい社会保障だと思うので絶対に使う。
僕の意志が固いことを悟ったのか、最後には祖父が折れた。
「とりあえず、社会勉強のつもりでやってみなさい。嫌になったら、すぐ帰ってくればいい」
絶対に帰らないけどね、と思いながら、僕は「はい!」と元気に返事をした。