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第21話 まだ噛まれてない

 チラチラと宗一郎さんを見ながら、彼が寝るのを待った。けれど、なかなかその気配がない。


「宗一郎さんは寝ないんですか」


「俺はリビングで課題をやるよ。眠たくなったらソファで仮眠をとれるし」


 初夜なのに、初夜じゃない……?


「そうなんですか」


 緊張していた分、がくりと肩の力が抜ける。


「柊の部屋にもベッド買わないとな」


「え? 一緒に寝ないんですか? このベッド、こんなに大きいのに二人用じゃないんですか?」


 今まで見たことがないくらい大きなベッドなのに。凄いな、これで一人用なんだ。やっぱり、αとΩは違うんだなぁ。


 僕が驚いていたら「二人で寝ようと思えば、大丈夫だとは思う」と宗一郎さんが言った。それなら、新たに買う必要はない。


「じゃあ、もったいないから買わなくていいですね。お金がもったいないですしね」


 僕は何度も「もったいないですからね」と繰り返した。自分は節約できる人間です、というアピールだ。


 これから毎日、宗一郎さんと同じベッドで眠れる。そう考えたら、胸がぎゅんぎゅんする。慎ましやかな庶民の暮らしというのは、とても素晴らしい。 



◇◇◇



 翌朝、宗一郎さんが朝食を作ってくれた。


 マグカップに粉末を入れて、湯を注ぐ。それからスプーンでくるくるする。僕は、そのくるくるする宗一郎さんの手に見惚れていた。


 大きいけど、きれいな手だ。


 パンを齧ると、バターの味がした。バターロールというものを口にしたのは初めてだった。温めると、パンはふわふわになった。中からバターがじゅわじゅわとしみ出てくる。


 宗一郎さんは「これが庶民の味だぞ」と言った。良かった。どうやら、僕は庶民の味が口に合うらしい。


 次の日も、その次の日も、彼が食事を作ってくれた。おそらく、僕は何も出来ないと思われている。


 やったことはないけど、やる気はある。でも、掃除や洗濯をする宗一郎さんが格好良すぎて、しばらくは甘えてしまった。


 ある日「僕もやりたい」と言うと、鍋のスープをかき混ぜるように指示された。僕も包丁を使ってみたいのに、と思いながら鍋をかき混ぜていると「柊も切ってみる?」と言ってくれた。


 初めて包丁を握った。野菜をさくさく切るのが楽しくて、気づいたら夢中になっていた。案外、料理をするのは向いているのかもしれない。ジャガイモの皮だってスイスイ剥けた。


 宗一郎さんは、僕の手元を見ながら微妙な顔をしていた。心配性なんだなと思いながら、僕はいつまでも、得意気になって包丁を握っていた。



◇◇◇



 僕が結婚することは、いつの間にか学校の皆に知られていた。


 クラスメイトに「おめでとうございます」と言われて、初めは何のことか分からなかった。相手がうなじを確認するような素振りを見せたので、それで理解した。


 退院して、久々に教室に入ると視線を感じた。


 皆が見たいのは、たぶん僕のうなじだ。


「入院、今回は長くて大変だったね。その、結婚もしたのに……」


 αの彼は、人の良さそうな笑みを浮かべながらチラチラと僕のうなじを確認している。


「まだ噛まれてないよ」


 勤勉な表情筋が仕事をする。


 僕が微笑むと、クラスメイトは焦ったように後ずさった。


「あ、そ、そうなんだ!?」


 Ωのうなじをジロジロと見ることは、マナー違反だとされている。チョーカーやネックカバーでうなじを覆うΩは少なくない。


 僕は全く気にならないタイプだから、そういう類のものは持っていなかった。


 でも結婚して、日を追うごとにうなじを覆う必要性を感じている。


 一目で「あ、まだ噛まれていないんだ」と分かるからだ。そこに若干の哀れみが混じる気がするのは、僕の考えすぎだろうか。


 宗一郎さんと一緒に暮らし始めて一ヶ月。全くそういう雰囲気にならない。


 僕の勝手なイメージでは、αはとんでもない野獣で、だから僕は退院したその日に宗一郎さんにバリバリと美味しく頂かれるはずだった。


 けど、そうはならなかった。初めは僕の体調のことを考えてくれているのだと思った。宗一郎さんはたぶん、かなり心配性だ。


 僕の免疫不全は現在、かなり落ち着いている。体は全く問題ないので、ある夜、僕は思い切って彼をベッドに誘うことにした。「ソファだと疲れがとれないですから」と言って、逞しい腕に自分の手を絡めた。


 二人で同じベッドに入った。すぐそばに宗一郎さんの体温がある。ドキドキしながら待っていたけど、何も起こらなかった。


 もしかしたら、僕は美味しそうではないのかもしれない。


「はぁ……」


 図書館で勉強しながら、ため息が漏れる。美味しそうに見えるには、どうしたら良いのだろう。想像もつかない。


「でも、一緒に眠れるだけで幸せではあるんだよなぁ」


 宗一郎の体温のおかげで、いつも布団がぽかぽかしている。それに、彼はとても良いにおいがする。甘くて優しいにおいだ。そのにおいを嗅ぐと心までぽかぽかして、温かい。


 においにカタチがないことが悔やまれる。ぎゅうぎゅう抱き込んで眠りたいといつも思っている。本当は宗一郎さん自身に抱き着きたいけど、恥ずかしくて出来ないので我慢している。


 いつか出来たら良いなと思いながら、その日も僕は図書館で遅くまで勉強していた。


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