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第25話 一花

 朝食を終えてしばらくすると、散歩に行く準備をする。


 上着を羽織って、歩きやすい靴を履くだけなのだが、腹が重いので動作が緩慢になる。


 突き出した自分の腹を見ても、まだ実感が湧かない。


 ヒートの症状が現れたあの夜。あの一夜で、僕は宗一郎さんの子供を身ごもった。現在は妊娠九ヶ月だ。


 のそりのそりと病院内を歩く。


 売店へ行き、雑誌をペラペラとめくった。経済誌は特に念入りに見る。目当ての物は無かったので、何も買わずに売店を出る。


「お坊ちゃま、立ち読みですか」


 主治医の秋里が人の良さそうな笑みを浮かべている。


「……欲しいものが無かったから買わなかっただけです」


「ご入用の物はお届けしますよ。何をお持ちしましょう?」


 何が欲しいか分かっているくせに、嫌味な主治医だ。


「見てみないと分からないので、結構です」


 須王自動車の経営統合が発表されてから、しばらくの間は週刊誌を賑わせていたが、最近は落ち着いている。


 それでもまれに記事が載っているので、こうやって売店で雑誌をチェックしているのだ。


 僕は経営統合をニュースで知った。


 慌てて祖父に連絡したけど、肝心なことは何も教えてくれなかった。「柊は知らなくて良いんだよ」と言われて、頭に血がのぼった。


「良いわけないじゃないですか! 夫の勤めてる会社ですよ!? 僕だって須王の人間なのに、どうしていつも何も教えてもらえないんですか!」


 気づいたら怒鳴っていた。はぐらかされることに耐えられなかった。この話をしたとき、秋里は腹を抱えて笑っていた。


「ずっと良い子だったのに、ついに反抗期が来たんですか? 妊娠後に反抗期が来るなんて、何だか面白いですね」


 ぜんぜん面白くはない。


 僕の妊娠が分かったときも「素晴らしい命中率ですね」と、無神経なことを言っていた気がする。……あまり覚えていないけど。


 妊娠初期の頃、僕はぼんやりとして一日を過ごすことが多かった。かなり気持ちが沈んでいた。宗一郎さんに対してのことだ。


 謝ろうと思いながら出来なかった。どんな顔をして良いか分からなかった。彼が頻繁に病院に来ていることは、秋里から聞いて知っていた。


「今日も来るらしいですよ。ヘタレな夫に会ってやったらどうです?」


「……もう少ししたら、会います」


 決心がつかないでいるうちに、宗一郎さんは仕事でフランスへ行くことが増えた。最近は、もうずっと向こうに行ったままだ。


 入院生活が続くなかで、僕の気持ちも少しずつ浮上していった。授業はオンラインで受けて、なんとか卒業することが出来た。


 大学へ行くかは、出産してから決めることにした。自分だけが希望通りの道に進むことに対して、やはり思うところがあった。


 最近は「初めての赤ちゃん」というアプリで、赤ちゃんを迎える準備をしている。


 今日は沐浴について勉強した。こんなに腹が膨らんでいるのに、未だに親になるという実感がない。


 それなのに、せっせと準備だけしている。何だか、不思議な感じだった。



◇◇◇



 親になる実感とは何か、答えのないまま日々は過ぎて行く。


 というより、そんなことを悠長に考えている間もないくらい怒涛の毎日が始まった。


 出産後、しばらくは日本に滞在できた宗一郎さんだったけど、一週間もしないうちにフランスへ呼び戻されてしまった。


 定期的に休暇を取って、日本に帰って来てくれるのは良いのだけど、長時間労働と長距離移動で彼はボロボロだった。


 慣れない育児で睡眠不足の僕よりもズタボロで、そんな宗一郎さんを見る度に胸が苦しくなった。


 一緒にフランスへ行こうかと考えたけれど、言葉が通じない国で子供を育てられるか不安だった。


「日本に帰って来なくても大丈夫ですよ。僕ひとりでも、何とかなりますから」


「……そうか」


 宗一郎さんが悲しそうな顔をする。子供に会えないのが寂しいのだろう。


一花いちかの写真、送ります。時間が合えば、オンラインで繋いで」


「ああ、そうだな」


 子供の名前は、二人で決めた。須王家には植物の名前を付ける慣習がある。宗一郎さんからも一文字もらって「一花」と名付けた。


 約束通り、一花の写真は頻繁に送った。でも、あまり時間が合わなくて、オンラインで彼の顔を見ることは出来なかった。


 二時間おきくらいに母乳をやるので、僕は常に寝不足だった。


 時間はアプリが知らせてくれる。「ポンポロロン」という、何とも間の抜けたアラームが合図なのだ。画面には「ミルクの時間です」と表示されている。


 深夜、寝ぼけながらスマホの画面をタップして表示を消す。母乳をやっているうちに、少しずつ目が冴えてきた。


 飲み終わって満足そうな一花を写真に撮って「たくさん飲みました」というメッセージと一緒に送信した。


 すぐに既読になった。


 あれ、宗一郎さん起きてたのかな? 仕事中? フランスは今、何時だったけ? 


 考えていると急に瞼が落ちてきて、僕はスマホを握りしめたまま気を失うようにして眠っていた。


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