なんとなく前兆があったので、アプリで一時預かりを申請した。
「今夜は、サポートセンターへ行こうね」
僕が言うと、一花は慣れた様子で自分の準備を始めた。小さなリュックに、着替えとハンカチと、お気に入りのウサギのぬいぐるみを詰めている。
ご機嫌タイムらしい蓮は、ひたすら「だぁ! とうぁ!」という掛け声と共にリビングで暴れている。最近ハマっている戦隊シリーズの主人公と敵役を一人二役で熱演している最中なのだ。
蓮と葵の準備をしていると、インターホンが鳴った。
迎えに来てくれたのは馴染みの女性スタッフだった。ベテラン保育士でもある彼女に、スヤスヤと眠っている葵を預ける。
リュックを背負った一花と、相変わらず一人二役を演じている蓮を見送ってから、僕は玄関の扉を閉めた。
たぶん間違いないと思う。妙に落ち着かないし、不安で胸の奥がざわざわする。
そして何より、寂しい。悲しいような怖いような、上手く説明できない負の感情が大きくなってくる。僕は無意識に部屋の中をぐるぐると歩き回った。
敏感になった嗅覚が、甘いにおいのする場所を教えてくれる。クローゼットを開けると、においが濃くなった。
宗一郎さんがパジャマ代わりにしていたTシャツを引っ張り出し、くんくんとにおいを嗅ぐ。甘いにおいがする。すごく良いにおい。
もっとこのにおいが欲しくて、全部の引き出しを開ける。宗一郎さんの服を全部出して、抱きしめる。甘い。良いにおい。悲しくて怖い気持ちが少しずつ和らいでいく。すごく安心する。このにおいがあれば寂しくない。
両手に抱えきれないほどの甘いにおいを、クローゼットからベッドに運ぶ。頭の中が霞がかったようになっている。
ぼうっとして、ふわふわする。気づいたら、ベッドは大好きなにおいで溢れていた。甘いにおいのする彼の服でこんもりとなっている。素敵なこんもりだ。
僕はその中に、もぞもぞと潜っていく。こんもりの中心で、甘いにおいを抱きしめる。
ぎゅっとして、くんくんする。甘いにおいが全身を満たしてくれる。胸の奥がほわほわして、安心する。このにおい、好き。大好き。
もう怖くないのに、悲しくないはずなのに、気づいたら涙が零れていた。どうして泣いているのか分からない。
でも、僕はいつもこうなってしまう。体を丸めて、じっと息を潜める。目を閉じると、そばに宗一郎さんがいるような錯覚に陥る。甘いにおいに閉じ込められて、僕はいつまでも泣いていた。
朝になって、散らかった部屋を見て唖然となるのはいつものことだ。ぐちゃぐちゃになった宗一郎さんの服を丁寧に畳んでいく。
僕が巣作りをするようになったのは、一花を産んでしばらく経ってからだった。
巣作りは、Ωが好きな相手のにおいを求めてする行為だ。一般的には、好きで好きで仕方がない気持ちを持て余したときに行うと言われている。片思いや付き合い始めの時期に多く見られるのもそのためだ。
結婚して五年目になるのに、未だに巣作りをしている僕は変わり者らしい。定期健診の際、秋里に知られてしまって、かなり揶揄われた。
「まだ巣作りしてるんですか? 結婚して五年も経つのに? 回数的にはどうなんですか。回数ですよ、これまでに何度しました?」
同じ相手を思って、何度も巣作りするΩはいないらしい。
「多くても三回くらいだと思いますよ。一度もしないΩだっていますから。それにしても、へぇ、そうなんですかぁ。ふぅん、大好きなんですねぇ、ご主人のこと」
ニヤニヤした顔が最高にイライラした。「珍しい例なので、研究させてくれませんか」と言われたが、もちろん断った。僕は珍獣ではないし、何より子育てで忙しい身なのだ。
子供たちが帰ってくる直前、スマホが鳴った。宗一郎さんだった。
「まだ一時預かりから戻ってなくて。もうすぐ帰ってくると思うんですけど……」
「あ……、そうなのか。タイミング悪かったな……」
「い、いえ、そんなことは……」
子供たちがいないと、なぜかギクシャクしてしまう。ビデオ通話なのに宗一郎さんの顔を見ることが出来ない。さっきまで巣作りをしていたので、余計に気まずくて顔を上げられない。
「あ、あの。子供たちが帰ってきたら、僕の方からかけます……」
「……ああ。でも、帰ってきたら忙しいだろう? 無理しなくていいよ」
「はい……」
通話を切ってから、ため息を吐く。子供たちがいないと会話が続かない。それなのに、せっせと巣作りをしている自分。何だか笑ってしまう。可笑しいのに、胸が痛い。
当たり前だけど、彼は僕が巣作りをしていることを知らない。未だに巣作りしている僕は変なのだ。
研究材料にされるくらいに変わっている。おかしな奴だと思われたくない。だから、言えない。言えるわけがなかった。