葵はさっきから難しい顔をしている。
自分の目の前に置かれたストローマグに興味があるようで、一生懸命に握ろうとしているのだが上手くいかないのだ。
口は開いたままで涎を垂らしているが、目は真剣そのものだった。なんとか両手で持ち手を掴もうとしている。
「……葵のマグ、持ってやったほうがいいのか?」
「あれは練習用なんです」
唐揚げを頬張りながら、柊が言う。
「そうか、持つ練習中なのか」
ぐぐっと眉を寄せながら、葵はなんとか両手でマグを持った。やった、と思ったのもつかの間、マグはすぐに葵の手からすべり落ちた。寄っていた眉は力なく下がり、悲しそうな表情になる。
「葵、少し持てたんだから凄いぞ」
相変わらず涎は垂れているので、俺はよしよしと頭を撫でながら、スタイを新しいものと交換した。
「惜しかったねぇ、葵」
柊は相変わらず唐揚げを爆食いしている。
「……肉、食えるようになったんだな」
以前は、少し食べただけで気持ち悪くなっていたのに。
「はい! たくさん食べられます」
どうりで、大皿に唐揚げが山盛りになっているわけだ。ちなみに、その他のメニューはモヤシと小松菜の卵炒め、豆腐とわかめの味噌汁だった。何とも庶民的な献立だ。
フォークで唐揚げを食べている蓮とは違って、一花は器用に箸を使って食べている。子供は野菜が嫌いなイメージがあったけど、一花はモヤシも小松菜も残さずに食べていた。
ごま油のいい香りがして、急に空腹感を覚えた。炒め物に箸をつける。卵はふわふわで、野菜はシャキシャキしていて凄く美味しかった。
唐揚げは外はカリっとして、中は驚くほどジューシーだ。下味がしっかりついているのでご飯が進む。何より味噌汁が美味い。長い海外生活の体に、味噌汁は最高に沁みた。
「家のメシって最高だな……」
「これからは毎日食べられますよ」
唐揚げと白米を交互に頬張って、幸せそうにモグモグする柊に言われて、俺は危うく泣くところだった。
◇◇◇
俺が洗い物をしている間に、柊が順番に子供たちを風呂に入れた。
蓮は俺に戦隊モノを見せようと張り切っていたが、風呂から上がると疲れたのか、柊にパジャマを着せてもらう途中で寝落ちした。
一花は柊に髪を乾かしてもらいながら自分でパジャマを着ている。ボタンも上手に留めていた。
柊と葵が一緒に入浴している間、一花に「絵本は何が好き?」と聞いてみたが、俯いて答えてくれなかった。「一花は人見知りなので……でも、すぐに慣れますよ」と柊は励ましてくれたが、一花が自分に人見知りしている事実を知ってさらに落ち込んだ。
社宅の住人たちにも見慣れて欲しいが、それよりも早く娘に慣れ親しんで欲しい。
ソファに座りながら項垂れていると、隣の柊がもぞもぞと体の向きを変えた。葵を抱いたまま、俺に背中を向けている。
どうしたのかと思って覗くと、葵の授乳タイムだった。目を閉じたまま、んぐんぐと母乳を飲む葵に癒される。
「かわいいなぁ」
思わず声を漏らすと、柊の肩がビクリと震えた。
「な、なに見てるんですか!? あっち向いててくださいっ!」
「え? あ、ご、ごめん……」
慌てて前を向く。見てはいけなかったのだろうか。なぜ。葵のかわいい授乳シーンなのに。
一生懸命おっぱいを飲む葵をもっと見た……お、おっぱい……。おっぱいを見たから怒られたのか? いや、厳密に言えば見えてはいないぞ?
男の場合は膨らみがないので、どこからがおっぱいかは分からないが、これだけは断言できる。俺は見ていない。
「見てないけど……」
「……何をですか」
「お、おっぱい……。そ、それにだな、もし俺が見てたとしても平気だろ、男なんだし。おっぱいのひとつやふたつ減るもんでもないしさ。膨らんでないおっぱいはどこからがおっぱいか分から」
「ぺたんこのおっぱいで悪かったですね! そんなに膨らんでるおっぱいがいいんですか!?」
「い、いや、そんなことはないぞ?」
振り返った柊が俺をギッと睨む。
「宗一郎さんって、デリカシーが無くなりましたよね。昔はもっと紳士的で優しかったのに」
謝ろうにも柊にリビングを追い出され、俺は玄関の横にある小部屋で寝るハメになった。
「口は災いの元だな……」
柊と子供たちは、元々俺と柊が使っていた寝室で仲良く就寝中だ。俺も皆と一緒に寝たかった。
家族の元へ帰った記念すべき日。なぜか俺はひとりで寝ている。寂しい夜は少しずつ更けていった。