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第30話 葵の練習

 葵はさっきから難しい顔をしている。


 自分の目の前に置かれたストローマグに興味があるようで、一生懸命に握ろうとしているのだが上手くいかないのだ。


 口は開いたままで涎を垂らしているが、目は真剣そのものだった。なんとか両手で持ち手を掴もうとしている。


「……葵のマグ、持ってやったほうがいいのか?」


「あれは練習用なんです」


 唐揚げを頬張りながら、柊が言う。


「そうか、持つ練習中なのか」


 ぐぐっと眉を寄せながら、葵はなんとか両手でマグを持った。やった、と思ったのもつかの間、マグはすぐに葵の手からすべり落ちた。寄っていた眉は力なく下がり、悲しそうな表情になる。


「葵、少し持てたんだから凄いぞ」


 相変わらず涎は垂れているので、俺はよしよしと頭を撫でながら、スタイを新しいものと交換した。


「惜しかったねぇ、葵」


 柊は相変わらず唐揚げを爆食いしている。


「……肉、食えるようになったんだな」


 以前は、少し食べただけで気持ち悪くなっていたのに。


「はい! たくさん食べられます」


 どうりで、大皿に唐揚げが山盛りになっているわけだ。ちなみに、その他のメニューはモヤシと小松菜の卵炒め、豆腐とわかめの味噌汁だった。何とも庶民的な献立だ。


 フォークで唐揚げを食べている蓮とは違って、一花は器用に箸を使って食べている。子供は野菜が嫌いなイメージがあったけど、一花はモヤシも小松菜も残さずに食べていた。


 ごま油のいい香りがして、急に空腹感を覚えた。炒め物に箸をつける。卵はふわふわで、野菜はシャキシャキしていて凄く美味しかった。


 唐揚げは外はカリっとして、中は驚くほどジューシーだ。下味がしっかりついているのでご飯が進む。何より味噌汁が美味い。長い海外生活の体に、味噌汁は最高に沁みた。


「家のメシって最高だな……」


「これからは毎日食べられますよ」


 唐揚げと白米を交互に頬張って、幸せそうにモグモグする柊に言われて、俺は危うく泣くところだった。



◇◇◇



 俺が洗い物をしている間に、柊が順番に子供たちを風呂に入れた。


 蓮は俺に戦隊モノを見せようと張り切っていたが、風呂から上がると疲れたのか、柊にパジャマを着せてもらう途中で寝落ちした。


 一花は柊に髪を乾かしてもらいながら自分でパジャマを着ている。ボタンも上手に留めていた。


 柊と葵が一緒に入浴している間、一花に「絵本は何が好き?」と聞いてみたが、俯いて答えてくれなかった。「一花は人見知りなので……でも、すぐに慣れますよ」と柊は励ましてくれたが、一花が自分に人見知りしている事実を知ってさらに落ち込んだ。


 社宅の住人たちにも見慣れて欲しいが、それよりも早く娘に慣れ親しんで欲しい。


 ソファに座りながら項垂れていると、隣の柊がもぞもぞと体の向きを変えた。葵を抱いたまま、俺に背中を向けている。


 どうしたのかと思って覗くと、葵の授乳タイムだった。目を閉じたまま、んぐんぐと母乳を飲む葵に癒される。


「かわいいなぁ」


 思わず声を漏らすと、柊の肩がビクリと震えた。


「な、なに見てるんですか!? あっち向いててくださいっ!」


「え? あ、ご、ごめん……」


 慌てて前を向く。見てはいけなかったのだろうか。なぜ。葵のかわいい授乳シーンなのに。


 一生懸命おっぱいを飲む葵をもっと見た……お、おっぱい……。おっぱいを見たから怒られたのか? いや、厳密に言えば見えてはいないぞ? 


 男の場合は膨らみがないので、どこからがおっぱいかは分からないが、これだけは断言できる。俺は見ていない。 


「見てないけど……」


「……何をですか」


「お、おっぱい……。そ、それにだな、もし俺が見てたとしても平気だろ、男なんだし。おっぱいのひとつやふたつ減るもんでもないしさ。膨らんでないおっぱいはどこからがおっぱいか分から」


「ぺたんこのおっぱいで悪かったですね! そんなに膨らんでるおっぱいがいいんですか!?」


「い、いや、そんなことはないぞ?」


 振り返った柊が俺をギッと睨む。


「宗一郎さんって、デリカシーが無くなりましたよね。昔はもっと紳士的で優しかったのに」


 謝ろうにも柊にリビングを追い出され、俺は玄関の横にある小部屋で寝るハメになった。


「口は災いの元だな……」


 柊と子供たちは、元々俺と柊が使っていた寝室で仲良く就寝中だ。俺も皆と一緒に寝たかった。


 家族の元へ帰った記念すべき日。なぜか俺はひとりで寝ている。寂しい夜は少しずつ更けていった。


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