柊の表情に、わずかに怯えがある気がした。
初めての夜のこと。苦い記憶が、ふいによみがえった。
「嫌だったか……?」
「なにがですか?」
柊がきょとんとした顔で見上げてくる。
「……柊がヒートのとき、俺はひどい抱き方をしていなかったか? 痛かったり、怖かったりして……」
柊がにこりと笑いながら手を伸ばしてくる。華奢な体を抱き起こすと、よしよしと後頭部を撫でられた。
「どうして、そんな痛そうな顔をするんですか」
「……柊が泣いてたから」
「恥ずかしいと、涙が出るみたいです」
彼の細い指先が、俺の手のひらに絡みついてきた。
「……ほんとうのことを言うと、少しだけ怖かったです。自分が自分じゃないみたいになって。でも、嫌だって思ったことは一度もないです」
形の良いくちびるが、ちゅっと吸い付いてくる。
「はじめてする前、いつするんだろう。いつ抱いてもらえるんだろうって、ずっと待っていました」
ちゅ、ちゅ、と何度もくちびるを吸われる。
「宗一郎さんのカラダ、僕のとぜんぜん違う……」
「そうだな」
「すごく大きくて、格好良い。割れた腹筋も、広い肩も、大きいのにきれいな指も、ぜんぶ格好良くて好きです」
ゆっくりと口づけして、舌ったらずになった小さな舌を絡めとる。
発情期を鎮めるための行為じゃない。
にこりと笑う柊を見て泣きそうになった。抱き合った後で、こんな風に柊が笑ったこともなかった。
細い柊の腕が、ゆっくりとシーツを上をすべる。小さな手のひらが、俺の手に重なった。
ぎゅっと握られる。可愛い。愛しい。それなのに胸が痛い。息が出来ないくらい、苦しくて幸せだった。
◇◇◇
朝、まだ眠い目をこすりながらキッチンに立つ。フライ返しで、ひょいっとホットケーキをひっくり返した。
何度もひっくり返す必要はないと思うのだが、蓮に「ひっくりかえすのみたい!」とねだられて、仕方なく両面を交互に焼き続けている。
片手で蓮を抱き、片手でフライ返しを握る。何が面白いのか分からないが、蓮はきらきらした目で頻繁にひっくり返るホットケーキを眺めていた。
「出来上がりだ」
「もっとひっくりかえすのしてぇ!」
「これ以上焼いたら焦げるから、な?」
ぷうっと頬を膨らませながら、自分の皿に乗せられたホットケーキを睨む。バターを乗せ、スプレータイプのホイップクリームをしゅわしゅわと盛ってやった。
もこもこのホイップクリームを見て、にんまりしている。ひとくち頬張ると、蓮は満面の笑みで「おいひいぃぃぃ!」と叫んだ。
もうすっかり上機嫌だ。ひっくり返す云々のことはきれいさっぱり忘れたのだろう。
口の周りにホイップクリームを付けているので、食べ終わったら拭いてやらなければ。
ていねいに切り分けて口に運ぶ一花を微笑ましい気持ちで眺める。葵は夜明け前に柊が母乳をやったので、今は気持ちよさそうに眠っている。
柊は疲れ果てて、まだベッドの中にいる。かなり無理をさせた自覚があるので「朝ごはんは俺が作るから」と言って部屋を出てきた。
「おかわり!」
蓮が元気な声で叫ぶ。
片手で蓮を抱き、片手でフライ返しを握る。何度もひっくり返しながら、俺は蓮のために新たなホットケーキを完成させた。