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第58話 ちゃんとオメガだった

 玄関の扉を閉めて、ほっと息を吐く。


 北斗とカフェで二時間ほど過ごした。もう少し一緒にいたかったけど、体調を心配された。自覚はなかったけど、頬が上気していたらしい。


 手の甲で触れると、たしかに熱を持っていた。


 駅の改札で別れた。今日の待ち合わせ場所は、北斗の最寄り駅だったのだ。


 中間地点にしようかという案もあったけど、俺がごり押しした。彼の生活圏を見たかった。


「乙女かよ……」


 自嘲した声が弱々しい。


 頭がぼうっとしている。カフェにいたときよりも、頬が熱を持っている。息苦しい。腹の奥がじんじんする。


 間違いなく、兆候だった。


 医師として、これまで嫌というほど患者をみてきた。それが今、自分の身に起きている。


 出かける前に、念のために服用していた薬が切れたのだ。


 改めて抑制剤を飲んだ。ベッドで大人しくしていると、症状が治まってくるのを実感した。


 自分が自分でないような感覚だった。


 生まれ変わったような気がする。ちゃんと反応した。俺の体は、北斗に反応した。


 うれしくて涙があふれる。


 高校生のとき、医師から不完全なオメガだと診断された。あのとき母親は「良かった」と涙ぐんでいた。その気持ちは理解できる。


 でも、俺は……。


「……母さん俺、ちゃんとオメガだったよ」


 今、俺は幸せで仕方がない。


「薬、飲まなかったら。北斗の匂いが分かるかも……」


 抑制剤を服用していると、たとえ番のフェロモンでさえ嗅ぎ分けることができない。


「どんな匂いなんだろう……」


 夢見るみたいに、俺は北斗の匂いを想像していた。





『家に来ませんか』


 というメッセージを見たのは、午前の診察が終わったあと。デスクでベーコンマヨロールを食べていたら、スマートフォンが震えた。


 心臓が止まるかと思った。


 次に会う約束はしていた。来週の日曜日。場所は決めていなかった。


 これは、まさか……。いや、でも家に行くってことは、そういうことだよな。


 未知の行為を想像したら、気が動転してベーコンマヨロールをデスクの上に落としてしまった。


『いいけど』


 ベーコンマヨロールを拾い上げ、震える手で返信した。頭の中が真っ白だ。体が動かない。


 呆然としていたら。再びスマートフォンが震えた。


『その日は、家族が誰もいないので。気を使わなくても大丈夫ですよ』


 思わず顔を覆った。


 誰もいない……?


 確定じゃないか……!


『二人きりになりたいんです』


 ひぇーーーー!


 もう見ていられない。文面を見るだけで赤面してしまう。


『でも、いきなりそういうことはしないので安心してください』


 え……?


 どういうこと? しない? 行為はしないってこと?


『料理を作りたいと思って』


 ……料理?


 意味が分からなかったが、俺は北斗と会えるだけでもうれしいので『分かった』と返信した。





 北斗の自宅は、駅から少し歩いたところにある高層マンションだった。部屋数の割に人の気配がしないというか、生活感のない印象を受けた。


「投資用に持ってるひとも多いみたいだね」


「……ふうん」 


 これだけは言える。確実に住む世界が違う。


 玄関はやたら広かった。そして眩しい。センサーで自動的に照明がついたり、エアコンか稼働したり。足元には動く掃除機がのろのろと動き回っていて、落ち着かない部屋だなと正直な感想を抱いた。


 常に衣類を部屋干ししている生活感に溢れる我が家とは雲泥の差だった。


 ちなみに、両親は仕事で朝から不在らしく、妹はついさっき友人宅へ出かけて行ったという。


 キッチンに並んで立つと、身長差が浮き彫りになった。カフェで会ったときは座っていたので、そこまで分からなかった。


「思ってたより、瑞生さんって小さいですね……?」


 北斗も同じようなことを考えていたらしい。


「これでも、オメガの中では大きいほうなんだけど」


 右隣に立つ俺を、まじまじと見ている。


「何センチですか?」


「……170センチは、ある」


 ギリギリだけど。


 実際の数字を明かすと、たいてい「え? それだけしかないの?」と驚かれる。「もう少しあると思ってた」とも言われる。


 小顔のせいなのか、全体のバランスが良く映るらしい。なので正確な数字は秘密にする。少しでも高身長に思われたいという、涙ぐましい努力なのだ。


「……北斗は?」


「最近は、はかっていないので……。正確な数字は分からないですけど、185センチはあると思います」


 羨ましい。


「僕の食べたいもの作ってもいいですか?」


 冷蔵庫を開けながら、北斗が俺に確認する。


「もちろん」


 一緒に作ろうと思っていたので、エプロンを持参した。


 体に巻くようにして装着し、紐を縛る。


「かわいいエプロンですね」


 思いっきりキャラクターものなのだ。かなりのどっしり体型なペンギンが描かれたエプロン。このおしゃれ空間には馴染むはずもない代物だった。


「担当していた子にもらったんだ……」


 どっしりペンギンを纏って身を縮こまらせている俺を、北斗がおかしそうにくすくすと笑う。


 恥ずかしくて顔から火が出るかと思った。いや、このエプロンはお気に入りで。ブサカワなキャラクターだって大好きなんだけど。それとこれとは違うというか……。


「そ、それで今日は、何品くらい作る予定なんだ?」


 話題を変えたくて話を振った。


「んーー、五品くらいですね」


 そう言って、今日作る予定のものを教えてくれた。



・キャロットラぺ

・なすの揚げ浸し

・小松菜の胡麻和え

・スモークサーモンとオニオンのマリネ

・豆腐と豚しゃぶのサラダ



「……健康的なメニューだな」


 それに、思っていたよりも庶民的で安心した。


 さっそく、俺は玉ねぎの皮を剥き始めた。玉ねぎはサーモンのマリネに使うらしい。薄くスライス出来るか心配していたのだけど、スライサーがあると知り、胸を撫でおろす。


 自慢ではないが、俺はそこまで料理上手というわけではない。外食したり、デリバリーに頼ったりしている。


 でも、スライサーがあるなら問題はない。玉ねぎのことは俺に任せて欲しい。ぜったいに大丈夫……。


「ん、んぅ……?」


 猛烈に目が痛い。じんじんと強烈に目がしみる。


 顔を顰めながら、なんとか玉ねぎとの格闘を終えた。スライサーで薄くした玉ねぎたちは、今は水にさらされている。


 真っ赤になった目をしょぼしょぼしていると、いつの間にか小松菜の胡麻和えとなすの揚げ浸しが完成していた。豚しゃぶのサラダで使う豚バラ肉の薄切りもボイルされている。


 いつの間に、茹でると揚げるの行程を済ませたのだろう。北斗は手際が良すぎる。呆気に取られている間にも、彼はささっと人参を千切りにしていく。


「瑞生さん、お酢を入れてください」


「う、うん」


 千切りにされた人参をボウルにうつし、お酢を回しかける。続いて、オリーブオイル、砂糖、塩も加える。


 最後にレーズンを入れたら出来上がり。キャロットラペの完成だ。


 時間を置くと、レーズンが水分を吸って良い塩梅になるという。


 慎重に木綿豆腐を切り分ける俺を見下ろしながら、北斗が「綺麗に切らなくても大丈夫ですよ」と声をかけてくる。


 包丁を握る手に力が入っていることは、重々自覚している。分かっているけれども、力が入ってしまうのだ。


 サイコロ状にカットした木綿豆腐と、豚バラ肉、レタス、カイワレを器に盛ったらサラダも完成だ。


「それにしても、健康的なメニューだな」


 俺が感心していると。 


 サラダ用のドレッシングを目分量で作りながら北斗が、ふっと小さく息を吐いた。


「帳尻を合わせようとしているのかもしれません」


「……帳尻?」


 何のことだろう。目をパチパチさせる俺をちらりと見て、北斗が笑みを浮かべる。


「子供の頃、菓子パンばかり食べる生活だったんです」


「そうなのか……」


 偏食だったんだろうか、と考えていたら「はい、出来上がり」と北斗が微笑んだ。


 豆腐と豚しゃぶのサラダがきれいに器に盛られていた。食べる直前に、ちょっとピリ辛のタレをかけると美味しいらしい。


「マリネは、俺が完成させる」


 玉ねぎに泣かされたので、自分が最後まで責任を持つ。まぁ、あとはサーモンと玉ねぎを和えるだけなんだけど。


 スモークサーモンは、食べやすい大きさにカットする。ボウルに、オリーブオイル、黒こしょう、お酢、砂糖、塩を加えてよく混ぜ、水気を切ったオニオンとサーモンを投入する。


 ざっくりとかき混ぜてから、ラップをして冷蔵庫へ。三十分ほどしたらさらに味がよく馴染むらしい。


 味が馴染むのを待ちながら、後片付けをする。


「でも、なんで料理だったんだ?」


 気になっていたので、訊いてみた。


「アピールです」


「何の?」


「ちゃんと料理できますよっていう」


 それが、一体何のアピールになるというのだろう。


 首をかしげていたら、北斗がとんでもない発言をした。


「僕、良い夫になりたいと思っているので」


 ……お、おおお、夫?


「料理できないよりは、できたほうが良いじゃないですか」


「そ、そうだな……」


 あれ……? ということは。


「あ、えっと。じゃあ、俺もこれからできるように……」


「瑞生さんは今のままで大丈夫ですよ」 


 にっこりと北斗が微笑む。


「僕が料理上手になりますから」


 息が止まるかと思った。


 衝撃が過ぎ去って、呼吸ができるようになったら、今度は涙が出そうになって焦った。ぐっと堪えた。もう玉ねぎのせいにはできない。だから泣けない。 


 後片付けをしてから、二人で作ったものを食べた。


 絶対に美味しいと思う。味見をしたので間違いない。でも、今は分からない。


 全身がふわふわして、感情がおかしなことになって、何を食べてもよく味が分からなかった。

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