「朝だよお兄ちゃん」
「悪夢かな」
「何が?」
「いや、こっちの話」
目を開いたら闇が目の前にいた。
ついにお迎えがきたのかと思ったが、別に十五年少々しか生きていないし、寿命が来るには早すぎる。
よく観察してみると妹だった。今日も変わらず化け物みたいな闇である。というか化け物か。家族を「化け物」と形容するのは心苦しいものがあるが、化け物である。
悲しみに胸を痛めつつベッドから起き上がる。
ずれた掛け布団の中は少し暑い。
汗ばんだ肌から、だんだん夏に近づいていることを感じた。
「今日はね、残念ながら雨なんだ」
「最近ずっとそうじゃない?」
「梅雨だからね」
さっきまで夢を見ていたような気がするのだが思い出せない。
まぁ忘れるということは取り留めもないことなのだろう。
俺は部屋から出ていく妹をぼんやりと目で追いながら、中学生の時に買ったために小さくなってきた寝間着を脱いで制服に着替えた。
いつかのように階段から転がり落ちないよう、慎重に降りる。
「今日は雨だから春雨だよ」
「春というには季節が進みすぎてる気がするけど」
「暦の上では春だよ」
「夏だよ?」
『暦の上では』というフレーズは季節感を誤魔化せる万能の言葉ではない。壁にかけてあるカレンダーが陳述するのは本日の日付。六月の中旬が間もなく終わる。間違っても、春などという発言はまかり通らない。
いいんだよ春雨を食べるときは春になるから。
と理解しがたい説明を妹はした。
ボディランゲージのつもりだろうか、触手らしきものが蠢いている。うにょうにょと
「いただきます」
「はい、どうぞ」
俺は食卓に座って春雨を箸で掴んだ。
おそらく笑っているのであろう妹を見て、ふと疑問。
化け物仲間である菜々花や雪花が食事をしているところは観測したことがある。しかし、妹が何かを食べている姿を見たことがないのだ。
もしかして食べられないのだろうか。
考えてみれば菜々花やらは一応人間の範疇に居そうな生態をしているが、妹は完全に向こうの世界の住人だ。そもそも本来この世界に生まれ落ちていないのだから、果たして通常の生物と同じ活動が可能なのか疑問である。
「どうしたの?」
「……いや」
何でもないよ、と呟いて春雨を口に放り込む。
大量にかけられたラー油の風味が鼻を抜けていく。
反射的にむせた。喉の奥の方がサハラ砂漠。
「大丈夫!?」
「まさか暗殺されかけるとは……」
「私、辛いの好きだから……」
「もの食べられるんだ?」
「うん」
食べられるらしい。
杞憂だった。
コップに入った麦茶を胃の中に叩き込んで、俺はため息をつく。
「今度からは辛さ控えめで」
「わかった」
本当に理解したのか怪しいくらい明るい返事だ。殺人未遂を起こしたとは思えない。
彼女は機嫌良さそうに立ち上がると、「お弁当のから揚げにタバスコかける?」などと意味不明なことをのたまう。全力で止めた。
「美味しいのに……」
と不思議そうに首を傾げる妹の姿が、やけに印象に残った。
◇
「暑いです……」
先程の体育のせいだろうか。
菜々花は肉塊の表面に血のような汗を流している。
もはや汗血馬。一日に千里くらい走りそう。
「お疲れ様」
「化野さんは何をしていたんですか?」
「バレーボール」
「私はマラソンです……」
「うわぁ」
一般的な男子高校生を自負している俺は激しい運動があまり好きではない。バレーボールとか(本気で競技に向き合わなければ)それほど疲れない運動だったらいいのだが、マラソンともなると問答無用で疲れさせてくるため、可能であればこの世界から消えてほしい。
ペルシア戦争が起きなければ現代の俺達がマラソンをする必要はなかったのかもしれないのになぁ。
「急に首を傾げてどうしたんですか」
「どうして戦争はなくならないのかと」
「重いですねぇ。昼休みに考えることですか?」
「考える程度にはくだらないかな」
タオルを取り出して表面を拭き始めた彼女に言う。
そのタオルが真っ白だったことも災いして、一瞬にして真っ赤になった。
凄惨な殺人事件の現場のごとく。怖い。
どかりと椅子に座り天上を見上げる。
未だ六月の中頃といった季節。
しかし窓の外からはジリジリとした日差しが差し込んでいた。
おかげで汗が浮かんでくる。
「ふふふ、しかし私マラソンは得意なんですよ」
「そうなの」
「前に住んでいた村……
「それ脱線してない?」
およそ陸上競技には似つかわしくない名前である。
レーンとか余裕で超えてきそう。
体育の授業が終わって昼休みに入ったためか教室には弛んだ空気が流れていた。椅子に座った菜々花もだらりと机に突っ伏し、「暑いですね」と恨めしそうに扇風機を眺める。流石にエアコンを付けるほどではないが、せめて扇風機くらいは。そう考えているのだろう。
そういえば須佐美さんは無事に応援部に入部できただろうか。
ふと数日前の記憶が蘇ってきた。
あれから彼女とは会っていない。そもそも今になるまで学校内で出会っていなかったのだから、数日くらい音信不通になるのはおかしくない。むしろ自然だ。
「あれぇ、もしかして化野さん」
「何」
「女の子のこと考えてます?」
「何で」
「『女の勘』です」
肉塊の分際で「女」などと自称しないで貰いたい。
よっぽど俺はそう言おうと思ったが、クラスメイトの視線が痛かった。
ゆえに黙りこくって机に突っ伏し、「化野さん化野さん」と絡んでくる菜々花のことを無視し続けた。肉塊に絡まれるなんて可哀想。