春休みも終わり、鳥辺野村から帰ってきた。
ずいぶんと久しぶりに制服に腕を通す。
何だか肩が張るような気がして苦笑してしまった。
「準備できた? もう学校に行く時間だよ」
「わかったよ――雪花」
扉を少し開いて特徴的な闇の姿をのぞかせる雪花。彼女は「手早く食べられる朝ご飯作ったから。もしあれなら登校しながら食べて」と階段を下りていく。
音がしないが気配は離れていった。
俺は肌寒い窓の外を眺めながら、不思議な感慨に浸る。
雪花は――鳥辺野村でのことを覚えている雪花は、あまりにも成長しすぎたらしい。初めは然るべきときが来れば記憶を戻すつもりだったらしいのだが、現在の雪花と闇の雪花は、その乖離が大きすぎる。
ゆえに彼女らは再び同じ形に収まることはなく、これまで通りの生活を送ることになった。
本物の妹ではない雪花とひとつ屋根の下で生活する。
つまり同棲ではないかと考えたこともあるが、冷静になってみると相手は化け物である。何か間違いが起きるはずもなかった。
俺は自分の理性をそれなりに信用しているのだ。
支度を終え家を出る。
玄関先まで雪花が見送ってくれ、ぶんぶんと触手を振っていた。
一応年齢的には同い年のはずなのだが、どうにも歳下感が強い。おそらく彼女の普段の言動が幼いからだろう。
学校までの通学手段は徒歩だ。
ゆったりと歩きながら、新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込む。
川に沿って積み上げられた堤防から街を見下ろせば、ところどころに桜が咲いているのが見えた。
今年から高校に入学するのであろう幼い印象の制服が揺れている。一年前は自分もああであったとは信じられない話だ。
俺は自身の制服姿を見下ろす。
きっと「着られてる感」はなくなっているだろう。
大雑把にポケットへ腕を突っ込み、靴の裏でアスファルトを感じる。
実は鳥辺野村からこちらへ戻ってきて、一度も菜々花たちと会っていなかった。スマホで連絡は取っていたものの、直接顔は合わせていないのである。
特段理由があるわけでもなく、ただあえて会う必要もなかっただけ。
だから多少の緊張があった。もしかすると何か思うところがあって、学校で出会ったら会話すらできないかもしれない。
スマホで彼女が語っていたことであるが、自分の化け物の姿を認識できるようになると、意外とまわりにも化け物が多かったと驚いていた。
もはや慣れてしまった俺は違和感を持つこともないが、視界が変わってまもなくの菜々花には驚愕の連続だろう。
「化野さんと同じなのは嬉しいです」などと意味のわからないことを言っていたが。
多分学校が始まれば……つまり今日、彼女は右往左往することになるはずだ。
結構な親交のある人たち――美穂やら陽子やら――が化け物であることは伝えていない。
別に意地悪でもなく、先程の理由と同じく機会がなかったために。
その姿を想像すると変な笑いが浮かんできた。
しかし傍から見ると突然一人でニヤニヤする危険なやつなので、意識して表情筋を固くする。
しばらく歩いていると校門が見えてきた。
清掃員さんが朝早くから仕事をしてくれたのだろう。桜の花弁が道の端に避けられている。
生徒たちは各々談笑しながら、あるいは友人がいない者は何かを覚悟したような表情で校舎へ向かっていった。
彼ら彼女らを眺めながら、ゆったりと足を踏み出して校門をくぐる。
俺は入学する学校を間違えたのだろうか。いやそうではない。
そう思えた理由は校門を入って正面にある大木、その下に鎮座する物体だ。
じゅわじゅわと全体から吹き出す謎の液体。赤黒い見た目は明らかに常軌を逸している。
どう考えても記念すべき始業式を控える今日に視認するものじゃないが……俺はため息を大きくついて空を見上げた。
満開の桜が空を占めている。学校に植えられているものだからソメイヨシノだ。そしてソメイヨシノの花言葉は〝精神の美〟だとか〝優美な女性〟だとからしい。
はたしてあの肉塊をそのような言葉で表現していいのかという疑問は残るが、少なくとも俺にとっては
わずかに手のひらににじむ汗を握り込んで、おもむろに歩きだす。
思い返せば一年前。
菜々花と出会ったのは桜の木の下だった。
鳥辺野村でのことを思い出した自分にとって、桜というのは印象的にすぎる。
ましてやあの出会いが桜の木の下であればなおさら。
「なぁ、俺と菜々花を引き合わせたのはタローなのか?」
誰にも聞こえないように一人呟く。
もちろん返答はなく、春の風が通っていくばかりだ。
少しばかり感傷的になりすぎたのかもしれない。
迷わないようにつま先を肉塊へ向けて足を進めると――背中を誰かに押された気がした。
反射的に振り返っても誰もいない。
新入生らしき青年が訝しげに横を通り去っていく。
「………………」
頭を掻いて、やがて頬がゆるんだ。
難しいことを考える必要もない。
ただ俺は今を生きるだけだ。
菜々花のほうへ歩いていくと、どうやらこちらの存在に気づいたようで触手を振ってくる。
「……多分同じ二年生ですよね?」
「……そうだね」
「わぁ。じゃあ奇遇ですし、一緒に始業式行きませんか?」
何が奇遇かはわからないが、流れ的に行ったほうがいいだろう。
これを断ったりするとどこかで見ているお節介焼きに呪われるかもしれない。
二人で並び、体育館へ向かっていく。
俺の人生が幸せかどうかなんて誰にもわからない。この化け物を視てしまう人生が、誰にとっても幸せなんてありえない。
だが少なくとも自分にとっては、決して「幸せじゃない」なんて口が裂けても言えないのであった。
今の俺には判断がつかない。
隣で歩く肉塊や他の化け物、それらが自分のこれからにどれだけの影響を与えるのか。
化け物が視えてよかったのか。それとも悪かったのか。
せいぜい十七年くらいしか生きていない若造にはわからない。
「……どうしたんですか?」
「いや――」
菜々花が可愛らしく首を傾げる。
俺はそれに対して誤魔化すように視線をそらして、静かにまぶたを閉じた。
今は何もわからない。
きっとわかるのはずっと未来のことだ。
だから今は、端的に現在の状況を表すことにしよう。
プラスでもなくマイナスでもなく。
そうだな、客観的に自分を取り巻く環境を言葉にするとすれば……。
――ラブコメするのは良いがヒロインが化け物しかいない。
とかになるのだろう。