これほどまでに運動不足を恨んだことはない。
俺は寒空の下、汗が吹き出るほど走っていた。
山の端が見えてくる。色のないそこに、特徴的な赤が佇んでいた。
すでに動く気力もないようで、肉塊――菜々花は地面にうずくまるようにして、そこに止まっている。
「……菜々花」
「化野さん」
「今日は寒いね。ちょっと走りたくなってさ、ランニングしてたんだ。でもしなかったほうがよかったかも。汗が冷えてすごく寒い」
「化野さん」
「……うん」
「近づかないでください」
静かな声だった。
そして初めての拒絶だった。
彼女はこちらに視線をやることもなく、ひたすらに黙り込んでいる。
「私、おかしいんです」
「何が」
「自分の姿が……なんでしょう、化け物に見えるんです」
「メイク失敗した? 美人さんだから大丈夫だよ」
「そういうことは……言ってないんですよ、化野さん」
やっと菜々花は顔を上げた。
おぞましい肉塊を震わせて、悲しく笑う。
「化野さんも私のことが化け物に見えますか?」
「俺は……」
「知ってたんですか。私が化け物だって」
嘘はつけない。
嘘をつけば、取り返しのつかないことが起きる。
雰囲気がそう語っていた。
表情をごまかすようにネックウォーマーに顔を埋め、俺はしばらくの間、何を言うか考えていた。
しかし思い浮かばない。むしろ何もないほうがいい。
手垢にまみれた
でもそれは真実菜々花のことを想った言葉ではない。
「化野さんは優しいですから、きっと私のことを考えてくれてたんですよね。私が化け物だって自覚したら、耐えられないだろうって」
「菜々花は強い人だと思ってるよ」
「ありがとうございます」
空虚な笑い声で、菜々花は立ち上がる。
「帰りますね」
「そうだね。そろそろ春休みも終わる。一緒に学校へ帰ろう」
「本当にそう思ってますか?」
「……思ってるよ」
「化野さんの話ではありません。私が本当に、学校へ帰ろうという意図で先程の発言をしたとお思いですか?」
間髪入れずに答えることはできなかった。
確信していたからだ。彼女がそういう目的で言ったのではないと。
ある意味、話を逸らそうとしていたのである。
「学校はやめます」
「……寂しいよ」
「ありがとうございます。何度も言いますが、化野さんは優しいですね」
「俺はありのままに話してるだけだから」
「ありのままでは、耐えられないんですよ」
菜々花はこちらに歩いてきた。
だが俺を目印にしているわけではなく、どこか遠くを目指しているようだった。
そのまま横を過ぎ去り、彼女は振り返ってくる。
「自分が認められないんです。化野さんがいくら言葉をかけてくれても、他でもない自分が。人間として生きてきた十六年間が私を否定するんです。人間とはかけ離れた見た目をした自分が、まともに生きていけるはずがないって」
まるで手のひらに落ちた粉雪のようだった。
今にも消えてしまいそうな佇まいで、菜々花は空を見上げる。
「お世話になりました。苦労をかけたと思います。これからは身の程をわきまえて、誰にも知られず生きていく所存です」
「俺が探しに行くよ」
「冒険家ですね。その先に行くと怪我しますよ」
「男の子だから。怪我は勲章だ」
俺はゆっくりと足を踏み込んだ。
動かない彼女のもとまで行って、首を傾げる。
「菜々花は自分のことが化け物に見えるんだっけ?」
「はい。赤黒くグロテスクなお肉の塊です」
「じゃあ今からすることが信じられないかもね」
「え?」
入学式の前。
桜の木の下で、鎮座する肉塊に絶望したのを思い出した。
誰もそれに反応しなくて、世界はいつの間に特殊性癖が
その時の自分が
おかしみを感じながら、俺は菜々花を抱きとめた。
「なっ、えっ、化野さん……!?」
「いや菜々花が自分を認められないんだったら、俺がまず行動で示してみようかと。見た目は大事じゃないよ。たしかに判断基準にはなるけれど、一番重要なものじゃない」
仮に化け物を本気で嫌悪しているなら、抱きとめるなんて無理でしょ? と肩を竦める。
彼女はどうやら混乱しているようだった。
意味のないうめき声らしきものが飛び出してくる。
「あ、え、うぅ……」
「何よりも大切なのは心だよ。外見よりも中身のほうが重要だって、よく言うことでしょ。俺以上にそれを証明する人間が他にいる?」
「たしかにいないでしょうけど……」
菜々花は真っ赤になって――もともと赤黒いけれども――触手をぴーんと伸ばした。
「あ、あ、化野さんは恥ずかしくないんですか!?」
「何が」
「その、躊躇なく人を抱きしめるなんて!」
「別に」
恥ずかしくなるようなことなどしていない。
俺には自信があった。
「ぷ、プレイボーイ」
「純情可憐で通ってるんだけど」
「少なくとも化野さんは絶対に純情可憐ではありません。強いて言うなら海千山千とかです」
「失礼だなぁ」
何だか重苦しい雰囲気も吹き飛んでしまい、俺たちは静かに見つめ合う。やがてどちらからともなく笑い出した。
「……すみません、ご迷惑をおかけてしてしまって」
「これくらいならお安い御用だよ」
「では末永くお願いしますね」
「まずは友達からでお願い」
「もう私たちは友達ですよ。……ですよね?」
「うん」
胸を張って化け物を友達だと認める。
一年前の自分だったら信じられない進歩だ。
進歩だと表現するかどうかは、人によるだろうけど。
俺たちは並び立って村に足を進める。
もう迷わないように、手をつなぎながら。
手のひら越しに感じる謎の液体と、生暖かい肉の感触。
いつもだったら反射的に顔をしかめてしまうところだが、今はむしろ「菜々花がここにいる」という安堵感が強かった。
しばらくして俺の家が見えてくる。
玄関先には――闇のほうの――雪花が立っており、心配そうに触手を振っていた。
どうやら自身の見た目を自覚した菜々花は
やはり姉妹は似るものらしい。
俺は苦笑して、彼女の触手を強く握りしめた。
「うひゃあ!? 何をするんですか化野さん!」
「く、くく」
堪えきれず噴いてしまう。
一体これをなんと表現しようか。
難しい感情だ。
だが、これだけは言えることがある。
――こうして俺たちの絡みに絡まった春休みは、ハッピーエンドで終わっていくのであった。