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三方咲苗《みかた さなえ》

四、三方咲苗みかた さなえ


 咲苗は心の中で叫んでいた。どうして、どうしてこんな仕打ちを……。


 咲苗の夫、ゆうは勝手で支配欲が強い男だった。勇は東北地方で有数のIT企業の社長の御曹司。寡黙だが、聡明な勇の父親と違って、彼は本当にただの「お坊っちゃま」で世間知らずであった。


 勇は親の会社をいずれ継ぐことが決まっているからなのか余裕綽々で、遊び歩いていた。たまに社の方に顔を出しては従業員に偉そうな態度で口出しをして、批判を買っていたことを彼は知らない。


 そんな勇は咲苗のことをまるでかごの中の鳥のように扱っていた。外出する際は必ず勇の許可を得なければいけなかったが、よっぽどのことがない限り許可はおりない。娘の明日花あすかにも愛情一つ注いでくれた記憶はない。


 毎晩酔っ払って帰宅しては寝ている咲苗のことなどお構いなしに、体を求めてきた。


 咲苗が少しでも近所の人や親戚の男と会話をしただけで、勇は暴力をふるってきた。


「オレ以外の男と話すな」


 息が詰まってどうしようもなかった咲苗はある日、娘を抱いて逃げ出そうとしたが、偶然帰宅した勇と鉢合わせてしまい、さんざんとがめられた後、部屋に監禁されてしまった。


 どこでどう雇ったのかわからない家政婦二人が家に住み着いて、勇がいない間、咲苗が逃げないように監視されるようになった。


 その日から咲苗は諦めて人形のように過ごしてきた。彼女にとって唯一の支えは娘の存在であった。勇はさすがに明日花のことまでは監禁できなかった。義務教育の小学校に通わせなければ、当然公的機関から目をつけられてしまう。そこで小学校には普通に通わせた。世間の目が気になるらしく、勇は明日花の授業参観や運動会を見に行くように咲苗に命じた。咲苗にとってはその時間だけが外に出られる時間であったが、当然自由はなかった。というのも必ず勇も参観や運動会の観戦について来たからだ。世間から見れば、夫婦仲は良く、娘を大切にしているようにしか見えなかったであろう。


 咲苗は二階の一室に閉じ込められていたが、勇は娘に「お母さんは日光に当たると皮膚が炎症を起こすから外にあまり出られない」と嘘をついていた。実際、運動会の観戦の際は帽子を深くかぶり、長袖長ズボンという出で立ちで出かけなければならなかった。温暖化で春や秋でも紫外線が強い時代なので、意外と周りの人からは不審には思われなかった。日焼けが嫌いで全身防護している人は他にもたくさんいたからだ。しかし、明日花は馬鹿ではなかった。


 娘の明日花が中学生になってしばらくしたある日、こう切り出された。


「母さん、逃げよう」


 驚いた咲苗だったが、娘が父の嘘を見破っている。母は日光に弱いのではなく、監禁されていることを理解していると知った。咲苗は嬉しくて思わず泣きそうになった。こんなところで死ぬまで監禁されたまま生活を送るのはゴメンだと娘と一緒に逃げる計画をくわだてる。


 明日花が家政婦二人の気を逸らすために、庭に火を放った。家政婦が掃除に従事している隙に窓からサラダ油を染み込ませた布に火をつけて放り投げたのだった。


 季節は梅雨時期。植物は湿っていたので、そこまでひどい延焼にはならないと思っていた咲苗だったが、予想以上に火力は強く、庭に植えてある松の木に火が燃え移った。異変に気づいた家政婦二人は慌てて消火器を手に火の元へ走った。と同時に二階に監禁されていた咲苗の部屋の扉を明日花が蹴破り、二人で逃げようとした。しかし、階段をおりたところで家政婦の一人に見つかってしまった。躍起になり、近くにあった花瓶を家政婦の頭をめがけて放り投げた。


 火は消し止められることなく延焼を続けてついに家は炎に包まれてしまった。煙の中なんとか外に出た咲苗と明日花だったが、門を出ようとしたところ、目の前に車が立ち塞がった。降りてきたのは勇であった。


「何をしている」


 二人に向かってギロリと目を向ける勇。咲苗は「ここで捕まってはおしまいだ」と思い、玄関のそばにあった大きな石を持ち、勇の頭めがけて思い切り振り下ろした。


「ごんっ」


 鈍い音がして、勇はその場に倒れ込んだ。もう後には退けないと二人は走り続けた。しかし、追手はすぐにやってきた。消防車のサイレンの音とパトカーのサイレンの音がけたたましく鳴り響く。


「明日花、あなたは逃げなさい」

「やだ、母さんと一緒にいる!」

「いいから逃げなさい!」


 咲苗は明日花の手を突き放して大通りへと自ら出た。結局、家に引きこもりだった咲苗の体力では逃げ切れないと判断したからだ。あっという間に見つかった咲苗は警察に捕まった。



 その時の記憶が蘇って咲苗は全身が震えた。娘が今どこでどうやって過ごしているのか片時も忘れたことはない。


 それにしても……。咲苗は思う。あの人がなぜこの島にいるのか。そんなことを考えていると咲苗の前に屈強な男が立った。


「次はお前の番だ」


 病院で採血をする際に腕を置くためのスタンドが用意されており、その上に咲苗の右手を固定される。スタンドは既に真っ赤に染まっており、何人もの血液が混ざり合って凝固していた。問答無用に銀色の謎の器具で指の爪が剥がされ、苦痛で顔が歪む。あの人は……自分の方など全く見ていない。やがて激しいスコールが降り注ぐ。


 咲苗は曇天を見上げた。娘の無事だけ祈る。


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