十、麻酔なし
「声帯をとって欲しい」という要望に、呆れかえった薊は一旦休憩をとることにした。どうせなら、医務室とは別の手術室を作ってほしかった。清潔でオペに集中できる環境の部屋が必要だ。この島の建設に多少なりとも薊は携わったけれど八割以上姉が管轄している。元医学部生なのに、どうして手術室を造らなかったのか疑問だ。
しかも、声帯をとる手術は麻酔なしで行うのは困難だ。人間は喉に変なものがあると異物とみなして反射する。咽頭ガン患者の声帯を全摘出したことは過去に二度ある。しかし、麻酔なしの手術などやったことはない。
囚人側の医務室は、常に怪我人が出入りしていて、不衛生だ。職員棟に連れてきて狭い医務室で行う他にない。
事務所でお湯を沸かして、ハーブティーを飲む。少しだけ心が落ち着いたが、次の瞬間には事務所のドアが開かれた。
事務所の奥に医務室があるのは逃走防止のためではあるが、ある意味、パソコンなどが置かれている事務所を占拠されたら、何でもやりたい放題になってしまう。そのため、パソコンには高度はセキュリティーが必要だった。パスワードを一度でも打ち間違えたら、その後三十分は全く使えない。そのパスワードは英語大文字四文字、小文字が十八、さらにその後に十桁の数字という長い長いパスワードである。そもそも、渡り廊下のエレベー
タ―を動かすためのICカードを
陳は、鷹と甲に挟まれる形でやって来た。患者、ご来院。
「ちょっとだけ休憩させてくれるかしら」
薊がそう言うとわかりました、と鷹が答える。陳は手錠をかけられ、足かせをつけられている。自分では歩くことが困難なので、二人に抱えられてきたようだ。さらには、事務所の入口には金属探知機がついており、もし凶器など隠し持っていようものなら、警報が鳴る仕組みである。
「その、手錠と足かせ、警報が鳴るわね」
結局のところ、金属製の手錠と足かせをつけているので、警報は鳴る。区別する方法を考えて取り付けてほしかった。
物々しい事務所の一角でハーブティーをゆっくり飲み干した薊は、陳を医務室に受け入れた。
「あなたは今から声を失います。最後に何か話したいことはありますか?」
涙目で首を振る陳。
「それだけはやめて下さい。私は自分の声が気に入っているんです」
確かに美声である。コンサート会場でマイクなしで歌っても響きそうな声。薊は「ごめんなさい、規則だから」とだけ返事して、陳をベッドに寝かせるように指示した。
麻酔なしの手術では当然、患者は暴れる。医師としては患者が少しでも動くのを避けたいので、麻酔を使用したいのが本音だが、やるしかないのだ。
何かにおいて『麻酔なし』で行うことを姉は要求していた。医師として、それは無理、不可能と反論した薊であったが、なら固定器具を用意しましょうと返事した姉は、特注で体を固定するためのベルトなどをたくさん用意した。しかし、人間の動かせる関節は細かいところも入れると二百六十ほど。手首、足首、胴体を固定するためのベルトは用意されたが、人間、首は動くし、腰を拗らせることだってできる。
「もちろん知っているわ」
ベルトを用意した姉はそう言うが、少しでも医学の知識があるのなら、麻酔なしの手術がいかに大変かわかって欲しい。いやわかっているんだろうけれど、それでも麻酔なしにこだわった。
「薊の技量なら大丈夫よ」
最終的に褒められてしまった薊は渋々了承した。
鷹に押さえつけてもらい、胴体、手足を固定して動かないようにして、さらに、顔面を両手で押さえてもらう。
「動かないでね。この辺りは血管も神経もたくさんあるところだから、失敗したら大変なことになるわよ」
この世の終わりとも言えるような表情で怯えた陳の喉元にメスを入れた。