十一、鴨か人間か
力の強い鷹でも、麻酔なしで暴れようとする陳を押さえつけていたら腕が痛くなった。血や傷を見るのは平気だが、それよりも薊の手さばきに感銘を受けた。器用な女だ。こんな手術をするより、本土に帰って命が危ぶまれる患者の手術を行うべきだと感じた。手術は二時間弱で終了した。声を失った陳はぐったりして眠ってしまった。
ペナルティが課せられるのが決定した時に咲苗が入っていることに、鷹は不覚だが落胆してしまった。鷹は昔の咲苗の姿を思い出す。美しい髪を一つに束ねた彼女。鷹は咲苗のことを知っていた。彼女が逮捕されたことを知った時は本当に驚いた。最初は別人だと思っていた。咲苗のことは名前しか知らず、苗字を聞かされていなかったので、名前が一緒で顔が似ている人だと思った。しかし報道を聞いているうちに、年齢も自分が知っている咲苗と一緒で、出身地も秋田県だということで、ほぼ彼女であろうことは間違いないという答えにたどり着いてしまった。
彼女が結婚していたことも知らなかったし、監禁されていたなんてもっての外知らなかった。その夫を殺したとしても正当防衛ではないのか。
鷹が衝撃を受けたのは彼女の判決だった。『死刑』という言葉に耳を疑った。彼女はそんなに悪いことをしたのだろうか。きっと島にやってくる、とは予測していたが実際目の当たりにするのは辛い。彼女の漆黒の髪に一部白髪が混じっているのに気づいて、時の流れを感じた。
感傷に浸っている余裕はないし、この場所で情けは必要ない。ペナルティを受けない囚人たちにも目をやらないといけない。
一通りの拷問を終えた囚人たちの傷はすべて念入りに消毒して、包帯を巻く。あとは水分をとらない、食事をとらないといったことがないように、囚人たちの部屋はすべて監視カメラでチェックされている。囚人たちの部屋には、毛布以外何もない。これは自殺防止のためである。もし、ガラスのコップ一つあっても、そのコップを割った破片で手首を切られても困る。また、舌を噛み切って自殺するケースも考えて、歯は前の方を中心に抜歯している。あと、意外にも囚人の部屋の床や壁は赤ちゃんが転んでも怪我しないようなクッション素材になっている。これも自殺防止のためでコンクリート打ちっぱなしだと、頭をぶつけて死ぬヤツも出るのでは。ということでクッション素材になった。
また、囚人たちの部屋にはすべて監視カメラが設置されているが、食事中は我々に与えられたタブレット端末でその様子を確認することができる。与えられた水や食料に手を出さなければ、食べるようにアナウンス。それでも食べない場合は部屋に張り巡らせた電気回路から電流が放出されるボタンを押す。これらのボタンはすべて壁の一面に埋め込まれており、一日目の夜に謝って死者が出たように、最悪の場合高圧の電流を送ることも可能。死ぬほどではないが、激しいショックと痛みを伴う。仕方がないので囚人たちは食事を口に放り込むしかないのだ。
それとは別に、食べたくないものを流し込むという拷問もある。刑には一つ一つ名前がついていて、明日は『フォアグラの刑』が実施される予定だ。囚人たちの両手を後ろで縛り、ひざまずいた状態で待機させる。食事は流動食だが、しそ、生姜、れんこん、かぼちゃ、セロリ、茄子、赤ピーマン、鶏肉をペースト状にしたものを用意している。基本的には体にいい素材ではあるが、しそと生姜の独特の風味と辛味が際立つ。鷹はそのペーストを小さなスプーンに一匙だけすくい、口に放り込んだ。不味いという言葉が真っ先に彼の頭に浮かんだ。鷹が想像した通り、生姜の辛味としその独特の香りが鼻をつく。そしてセロリの風味も効いている。
囚人たちは約三時間、このペーストを口に放り込まれ続ける。食べたくても食べたくなくても放り込む。まるでフォアグラのようだなと鷹は思う。これらの拷問内容をすべて考案したのは総理だ。そのとんでもない発想力を持った彼女は鷹にとって恩人でもあった。
一日の仕事を終えた鷹に休む暇はない。休憩は五人で順番にとるが、夜の間も囚人棟の見張りを行う。朝の九時、昼の十二時、十三時、十六時に鐘が鳴り響くだけで、あとは月や太陽の位置からおおよその時間を割り出す。事務所と医務室、個人のプライベードルーム、食堂に時計はあるが、時間というものはこの島では大まかにしかカウントしていない。本島に帰れば電車は分刻みで発着するし、テレビのニュースはピッタリ七時から放映される。この島ではおおよそでいいのだ。
「交代だ」
囚人棟の廊下に立っていた鷹に声をかけたのは甲だった。
「よろしく頼む」
鷹は見張りを交代して、やっと寝床についた。
ゴーン…ゴーン、鳴り響く鐘の音と共に刑は始まる。
一列に横並びになった彼らの口の中にチューブを入れる。このチューブは拷問用に作られた特注品で口の中で広がって、簡単に吐き出すことはできない。誤飲を防ぐために少量ずつ、ゆっくりとその液体は流しこまれていく。飲み込まずに口の中に溜めたところでやがて口の中が飽和状態になって、苦しくなるだけだ。
囚人たちの表情はただ苦悶に満ちていた。それでも、体にいいものを流しこんでいる点についてはフォアグラとは違う。鷹は、フォアグラの生産現場を直接見た訳ではないが、脂肪肝にする食事を与えるなど、何の罪もない鴨たちにとっては迷惑きわまりない。
世の中には必ず闇がある。そしてその闇はできる限り見えないように工夫されている。
拷問マニュアルなどと記された物騒なそれを読むのは、体に毒だと思った。地面に掘られた穴に水を入れて泥の状態にしてその泥プールに囚人たちを沈める『どぶの刑』、お尻丸出しの状態で臀部の皮膚を剥がされる『皮剥ぎの刑』、砂利の上にアザだらけの脛で正座をして、一枚が三キロの瓦をバランスよく積んでいく。『瓦の刑』などが今後、行われる予定だ。鷹は菫に直接任務を言い渡された訳ではなく、すべては百三ページにも及ぶそのマニュアル本に図解と共に記されていた。すべての拷問方法を彼女が考案したとは思いたくない。きっと誰かそういうのが得意な人に任せたのだ。何回か自分にそう言い聞かせたが、ため息しか出なかった。鷹にリーダーを務めてほしいと書かれた手紙は直筆だったが、マニュアル本の文字はすべてデジタル明朝体だった。
さらに囚人たちの糞尿を集めたものを例の泥プールに混ぜてその中に囚人たちを突き落とす『糞尿の刑』、豊臣秀吉が昔、耳狩りをしたことは有名だが、全部切り落とすのではなく、半分だけ耳を切る『耳狩りの刑』、十字架に貼り付けにして足元で炎を起こす『火炙りの刑』、他にも何種類もの拷問がある。
この島に来たら彼女に会える。そう信じて引き受けてしまった鷹は、実際島にやって来て、一度も彼女に会わないことに落胆と安堵の両方を感じていた。一目会いたい。でも会ってどうする。
午前中の『フォラグラの刑』が終わると、午後からは『糞尿の刑』が実施された。
悪臭の中でうごめく囚人たちは、ゲームの世界に登場するゾンビのようである。
「助け……助け……」
プールから這い出そうとする者がいれば、監視員たちが棒を使って再びプールへと沈める。
悲鳴と罵声と泣き声に満ちたこの空間を一週間後に総理が直接見学に訪れるそうだ。今朝、薊からその話を聞いた鷹は心が乱れた。会いたい気持ち、会いたくない気持ち。自分は何を考えているのであろうか。雑念が多すぎる。比叡山にでも行って修行をしようか。そんなことすら思う。
一週間後にはきっとこの中の誰かが自殺をして消えていることであろう。