十六、喪失
三方咲苗は寝床で横になったまま、眠れずにいた。両手の指の爪は十枚とも剥がされた。手先や足先は痛点が多い箇所で、ヒリヒリと傷は痛み続ける。この間歯を抜かれてからようやく出血が止まったのに、なぜだろう、口の中の血の味がいつまでたっても消えない。
咲苗は残された髪を指でつまんでみる。頭の右半分の髪はすべて抜き取られ、左後頭部の一部だけ髪が残っているが、以前のような艶は失われ、蜘蛛の巣のようにからまっている。
髪が綺麗だと褒めてくれたのは娘の明日花だった。あれはいつのことだったろうか、明日花がランドセルを背負って小学校へ通い始めたころ、近所の人に不審に思われないように、娘が朝、小学校へ行くのを門のところで見送るように勇に命じられた。娘が重いランドセルを背負って少し寂しそうに振り向くのが可愛くて、この時間が咲苗の楽しみだった。数分間だけまぶしい太陽の光を浴びることもできた。逃げようと思えば逃げられたのかもしれないが、笑顔で手をふる咲苗の後方には、さすまたを持った家政婦が見守っていた。社長の御曹司の家は広くて、玄関から門まで六メートルほどはある。どのみち家政婦は、咲苗が逃げないとわかっていたのであろう。母が逃げたら娘はどうなるのか。咲苗は娘を置いて一人で逃げることができない性格だと勇にも家政婦にも見破られていた。
ある日、明日花が咲苗の方を見てこう言った。「お母さんの髪の毛って綺麗だね」
その言葉に心踊った咲苗は髪を伸ばし続けた。娘の明日花も母譲りの綺麗な黒いストレートの髪の毛で、咲苗は何度か明日花の髪も結ってあげた。当然だが、その母子の
今日は食事拷問の刑を受けた。口に押し込まれた謎のチューブから不味いドロドロの液体を三時間も流し込まれて、午後からは汚物のプールにほうりこまれた。人間として扱われない、家畜以下、虫以下、これだったら昆虫のほうが余程いい。
先週、咲苗は自殺を志願した。しかし、選ばれたのは一原だった。咲苗は自分の手を見て幻滅した。湿度の高い島のはずなのにあかぎれができて、カサカサ。こんな自分をあの人に見られるのは嫌だった。元々細身だったが、島に来てからさらに痩せた。死刑が確定した咲苗は、呆然として三日ほどご飯が食べられなかった。看守に勧められてお粥をゆっくり口に運んだ時、明日花のことが頭をよぎって、涙が止まらなかった。明日花が捕まっていないのか。と看守に尋ねたが、何も答えてくれなかった。何も答えてくれないことがより咲苗を不安にさせていた。ガリガリに痩せた自分の手首を見て、こんな姿をもし娘が見たら……ショックだろう。何かの間違いで死刑判決が覆り、外の世界に出て
明日花と会える日を夢見ていた。それだけが生きがいだった。
しかし、死刑が覆るどころか、訳のわからない島へ連行されている。娘と会うなんて希望はもう絶対無理だと思った。
そして、咲苗の心にはもうひとりの人物がずっといた。彼のことを思い出す度、胸が痛んだ。チクリと針を刺されたような痛み。こんなところでこんな形で再会するとは思わなかったが、例の人は自分のことを見ていない。そう感じていた。
今までは娘の明日花に会いたいという気持ちで頑張っていたが、もう限界だ。
自殺は本人が冒した罪、つまり殺害方法で死ななければならない。咲苗は、自分の頭を大きな石で殴りつけるか、または自分自身に火をつけなければならない。
できるだろうか、と咲苗は思う。娘の明日花のことは一日たりとも忘れたことがない。もっと愛情をかけてやればよかった。もっと娘とたくさん話をしたらよかった。後悔が津波のように押し寄せる。しかし、自殺志願者は一週間に一人だけで、誰が志願したかわからないように、食事中に志願するかしないかの紙が配られる。人によってはもはや、その紙にマルを書くことすらできないんじゃないかというくらい体がボロボロの人もいる。拷問の重さは罪の重さと比例する。あの人……。名前は水釘ということしか知らない。下の名前は忘れたけれど、私立小学校に侵入して児童を多数殺害した奴だ。ニュースで何度も顔を見た水釘なんてとっくに絞首刑で亡くなっていると思っていた咲苗は、彼の顔を初めて見た時冷や汗が出た。
しかし、それは最初だけで、今はもう自力で歩くことすらできない。両手両足は脱臼しているのか立つこともできない彼は、拷問場への行き帰りも担架に乗せられている。爪や歯は言うまでもないがすべてない。髪の毛もすべて抜かれて、目は片方失ったらしく、眼帯をつけている。
咲苗の部屋は縦長の畳三畳ほどの広さで、驚いたことに床も壁もクッション素材だった。しかし、咲苗にとっては床がクッションでもコンクリートでもフローリングでもそんなこと、どうでもよかった。部屋の奥には窓とも呼べないほどの小さな穴があり、僅かだが、西日が入り込む。窓の下には用便を足すためのバケツが置いてある。水洗トイレではないので、匂いが部屋に充満するが、恐らくこのバケツから糞尿を回収して、糞尿プールにぶち込むのであろう。
疲れた。とにかく疲れた。ああ、もう消えてしまいたい。その時、何か救急車のようなパトカーのような、もっと違う不穏な音が聞こえた気がした。
明日花の顔を思い出す。やっぱり自殺はするべきではないのだろうか。明日花に会いたい。絶望的な状況の中で咲苗は一人涙を流していた。