十七、来坊
その頃、真心は心臓が押しつぶされそうな恐怖に襲われていた。身の安全を確保する方法がわからず、部屋を暗くして布団を被っていたのだが、彼女の願いも虚しく突然、鍵がガチャリと音をたててドアが開いたのだ。まさか、このドアを開けられるのは黒服以外にいない。侵入者がどこの馬の骨かもわからない自分を訪ねてくることはない。そう思いたかった。布団の隙間から入口の方を覗くが、暗くて誰だかわからない。心臓がドクドク、いや、バクバクと激しく鼓動している。
黒服だったら声をかけてくるはずだ。それが無言ということは侵入者なのか。真心は緊張のあまり、失禁しそうだった。
近づいてくる気配がする。まずい、どうすればいいか、どうしようもない。身を護るものは現在布団のみ。
その時だった。
「あの……渡倉真心さんですか?」
と本名で呼ばれて、真心はほんの少しだけ布団の中で身を起こした。
「なぜ、私の名前を……?」
「やはり、渡倉さんなのですね」
「あ、あなたは……い、一体誰ですか?」
部屋が真っ暗なので姿かたちがわからない。真心が布団の中で固まっていると相手の方が懐中電灯を取り出し、点灯させた。しかし、予想していたほど部屋は明るくならず、ぼんやりとした光だ。よく見たらライトのところに白い養生テープが貼られていた。そーっと顔を見上げるとそこには、女性がいた。
「驚かせてすみません。私は
そう言って、三方という女が自分の方に懐中電灯を向けた。歳は真心と同じくらいであろうか若くて可愛らしい顔、身長は百六十くらいで黒いシャツに黒いズボンを履いている。黒に黒をあわせているので一瞬、黒服の女たちの仲間かと思ったが、スーツではなく、黒いデニムを履いているし、足元はスニーカーだ。しかし、そんなことより真心をひどく怯えさせたのは、銃口がこちらに向いていたことだ。
「ひっ……」
女は懐中電灯を左手に、ライフル銃を右手に持っていた。
「声を出さないで。静かにしていれば発砲はしない」
本物か偽物かなんて真心には判別できないが、とにかく言うことに従うしかない。
「まずは私の話を聞いてほしいの」
銃口をこちらに向けられている状況で断るなんて百パーセントできない。話を聞く以外の選択肢はないと即座に判断した。
「わかりました……」
女はライフル銃を肩にかけた。そして、布団から出てくるように指示を出した。真心は言われたとおり、布団から体を出した。その動きは自分でも驚くほどぎこちなかった。
「座っていてね。変な動きをしたら撃つから」
硬直する体をなんとか動かしてベッドの上に座ると、唯一の照明であった例の養生テープが貼られた懐中電灯のスイッチが切られた。
「窓から少しでも明かりが漏れるとバレるので、真っ暗ですみません」
さっきから脅したり謝ったり、この人は敵なのか味方なのかどちらなのか。
「渡倉さんがこの島の中で一番話がわかりそうな方だと判断しました。私がこの島へ来たのは母を助けるためです」
暗闇の中で聞こえる声はとても可愛らしい。アニメの声優をやっていてもおかしくないような綺麗で透き通った声だった。
「母は三方咲苗といいます。現在この島に連れてこられて刑罰を受けているはずです」
三方咲苗という名前を聞いたところで、真心はこの島にいる囚人たちの名前を一人も知らない。だが、全く聞いたことのない名前ではなかった。何年前かは忘れたが、ネットニュースでそのような名前を見かけたことがある。
「母は五年前に死刑判決を受けました。確かに母は父を殺したかもしれないですが、おかしいんですよ」
そんなことを言われても……。真心はなぜ自分にそんな話をするのか理解できない。
「あの……そういうのはこの島の責任者に言った方がいいのでは。私はただ、調理と清掃を担当している人間で、囚人たちと直接面識がないので……」
そうは言ったが、この島を一体誰が統括しているのかなど知らない。
「私がのこのこと出ていっても話を聞く以前に捕えられて本島に送り返されるだけですよ」
「でも私に言われても」
「おかしいと思いませんか? 私の母は父に監禁されていたんです。父を殺したとしても正当防衛ですよ。それにきっと……私を守るために……それなのに死刑はあまりにも罪が重すぎます」
真心は返答に困っていた。お願いだから巻き込まないでくれという言葉だけが頭の中で渦巻いている。
「私じゃ何の役にも立たないと思います……」
「そんなこと言わないでください! ここにいる受刑者たちは拷問を受けているんでしょ?」
「あの、大きな声を出したらあなたがここにいることバレますよ」
あれ、この人を助長する気なのだろうか。自分の言葉に驚いてしまう。それにこの島で行われていることは極秘のはずなのに、なぜ彼女は知っているのであろうか。
「えっと……まずは説明してください。詳しく説明してくれないと話がぶっ飛びすぎていてわかりません」
真心がそうたしなめると、明日花はしばらく立ち止まって、その場にしゃがみこんだ。
「五年前です。私の母は自分の夫を殺した罪、そして放火で家政婦を殺害した罪で逮捕されています」
五年前というと真心が十五歳の時だ。
「場所はどこ?」
「秋田県です」
「秋田……」
なんとなくそんな事件が報道されていたような気がする。
「でも放火は私の責任です。家政婦が亡くなったのだって殆ど事故のようなものです。母は何も悪くない」
「あなたは一体幾つなの?」
真心の問いに、真っ暗な中で、明日花が少し顔をあげたのがわかった。
「十九歳です」
ということは事件が起きた時はまだ十四歳ということか。
「それは……お気の毒に……」
「でも、母は父から毎日罵倒されて、人間扱いされていなかったんです。暴力だって受けていた」
彼女の声は
「母が父を殺したとしても、それなりに理由はあって……。もちろん殺人を肯定する気はないけれど、母はそこまで悪いことをしたのでしょうか⁉」
そんなことを言われても真心は警察でもなければ弁護士でもないし秋田県に縁もゆかりもない。
「ええと、つまりあなたが言いたいのは、それだけで死刑判決を下されたのは重いし間違っていると」
「そうです。母がなぜこの島に運ばれてきたのか納得できません。この島には過去二十年間の間に死刑判決を下された囚人たちが集まっているはずです」
「なぜあなたはそのことを知っているの?」
「菫組を捕まえて口を割らせました」
「菫組?」
「知らないんですか? この島にいる女たち」
真心は黒服の女たちを思い浮かべる。あの人たちはすみれぐみというのか……。
「こう見えても腕力には自信があるんですよ」
暗闇なのでぼんやりとしか姿が見えないが、少なくても声からはそんな感じがしない。
「……私は殺人鬼の娘として、もう秋田にはいられなくなりました。行く宛もなくさまよっていましたが、裁判はいつの間にか進んでおり、死刑の判決が下されました。殺人事件があってから僅か二ヶ月後のことです。このくらい大きな事件の場合、もっと時間をかけて裁判が行われるものですが、たった二ヶ月で死刑だなんて。新聞ではすべての罪を認めたと書かれていたのですが、それはきっと私を庇うためにそう言ったのだと思います。私は自ら警察に名乗り出ました。三方咲苗の娘です。私が真犯人ですと。そうすると警察は同情した目で私を保護施設に連れていこうとしたから逃げたんです。逃げて、逃げて、逃げ続けて……。幸い私は優しい人に匿ってもらうことができました」
その様子を想像したら苦しくなった。十代の女の子が一人、どうやって生き抜いてきたのだろうか。
「ちょうど一ヶ月前、北海道の苫小牧に死刑囚たちが集められていて」
「北海道?」
「はい、死刑囚を集めていったい何をする気なのかと監視していたら、見たこともないような船に乗せられていました。その中には母もいました」
見たこともないような船とはいったい。
「もしかして、それで追いかけてきたの?」
「もちろん、母をどこへ連れて行く気かと」
やはり話がぶっ飛んでいる。殺人事件があったのは五年前、そして死刑判決が下されたのがその二ヶ月後、彼女……三方明日花が囚人たちを苫小牧で目撃したのが約一ヶ月前。彼女はこの五年間、秋田を離れて一体どうやって暮らしていたのか。なぜ北海道にいたのか。
ある一定の距離はとりながら話しているが、それでも相手の表情がはっきり見えないというのは、何かと不便だ。電気をつけようか。でも消灯時間は過ぎている。
二十年間の間に死刑判決を受けた者がここに集められているということは当然「あいつ」もこの島にいる。真心は息を呑んだ。
真心は、祖父母と父、母と姉と暮らしていた。六人家族だった。
勤勉で頭が良くて、少々頑固ではあるが孫には優しい祖父、そして心配性だが温かい祖母。この二人が真心にとっては両親の代わりであった。真心の姉は私立の小学校に通い、成績優秀で真面目だった。そんな姉を真心の母は贔屓にしていた。
姉の名は
その翌年、祖父が膵臓がんであることが判り、あっという間にこの世を去った。さらに翌年、祖母は後を追うように、心筋梗塞で亡くなった。真心という名前は祖母がつけてくれた名前だ。「どんな時でも心を大切に、真心をこめて人と接しなさい」というのは祖母の口癖だった。祖父と祖母を失い、長女を失った母はそのころからおかしくなり始めて家を空けることが増えた。真心が学校から帰ると、テーブルの上に千円札が置いてあり、父も母もいない。仕方なくコンビニで弁当を買い、一人寂しく食べていた。それも辛かったが、まだマシだった。ギャンブルに溺れるようになった父はいつの間にか仕事を辞めたらしく、テーブルの上の千円札もいつの間にかなくなっていた。食べるものがない日はお腹がすいて眠れなかった。思い出すのはいつも、祖母の作ってくれた、料理の味だった。祖母はシチューやカレーも好きでよく作ってくれていた。家に仏壇すらない時代で、壁に投影した祖父と祖母のスライド写真を見ては、必死に生きようと決めていた。
地元の中学に進学して、給食でお腹を満たしていた真心は何度もおかわりしていると、周りの男子から大食いだと揶揄されたが、何を言われようが給食はありがたかった。というか、給食がなければ恐らく餓死していた。
姉が亡くなったことについてはあまり何も感じなかった。昔から全然タイプが違う姉妹で、一緒に遊ぶことも少なかった。親は完全に姉を贔屓していて、唯ちゃんは偉いわねぇなんて言って真心の前で頭をなでていた。
真心はそんなに器用なタイプではなく、姉と同じ私立の小学校を受験したが落ちた。成績はまあまあで、体育もそこまで運動神経がよくなかった。特技は? と聞かれると何が特技なのかわからない。
だけど姉を羨ましいとも思わなかった。それは祖母がいてくれたからだろう。
「唯は唯、真心は真心」
そうはっきり断言してくれた祖母の写真をこの島に来る時に一枚だけカバンのサイドポケットに入れた。
一通り思い出してしまった真心はハッと我に返る。
「あの……」
真心が話しかけると、小声で「シッ」と言った明日花が人差し指を立てる。その瞬間、部屋の扉がノックされた。
明日花は暗闇の中で、そっとバスルームの方へ隠れる。真心は電気をつけて、扉をゆっくり開けた。
「はい」
ドアの隙間から黒服の女の姿が見えた。
「就寝中に失礼。先程館内アナウンスがあったと思うけど、侵入者がこの棟にいるかもしれないの。何か異変はない?」
「いえ、特に」
「そう、わかりました。では引き続き身の安全を確保してください」
そう言ってドアが閉められた。部屋の電気をつけて始めて明日花の姿が露わになった。黒いシャツに黒いズボン、そして真っ黒な瞳とストレートの長い髪をポニーテールにしている。まつ毛は長くてとても綺麗な顔だと思った。渋谷の街を歩いていても全く違和感のない普通の女の子なのに肩に背負ったライフル銃だけが現実離れしている。
「ありがとうございます」
真心は咄嗟に異変はないと答えてしまったが、もしこの子を隠匿していることがバレたら罪になるのかと思い、背筋が凍った。
「すみません、電気をもう一度消してもらえますか?」
相手が敬語とはいえ、ライフル銃を持っている人に逆らうことはできない。真心は黙って照明のスイッチをオフにした。
「協力してくれる。と解釈していいですね」
黒服の女に彼女を突き出さなかったから味方だと解釈されてしまったらしい。
「あの、やっぱり私なんかじゃ……」
話しはじめると、真心の首筋に何か冷たいものが当たった。
「ひっ……」
「あなたは人質です」
「ひ、人質⁉」
首に当たっている何か……銃ではない。感覚的に鋭利な刃物だと察知した。
「そうです。ちょっと協力してもらいます」
気がおかしくなりそうな真心は明日花を庇ったことを後悔していた。