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十九、朧《おぼろ》げな記憶 

十九、おぼろげな記憶 


 混乱に乗じて逃走を図る奴がいないか。皆、日々の拷問で体はズタズタであるが、それでも逃走するやつがいてもおかしくない。アナウンスは職員棟のみにしか流れていないが、壁についた赤色灯がサイレンを鳴らしている。これは誰がやったのか。侵入者が壁を上ったとしたら、相手は予想をはるかに超える。それとも……。


「秋桜と菖蒲はどうした?」

「今は事務室にいてもらっているわ。二人ともひどい傷などはなかったから」


 もしかしたら二人に聞き出したのだろうか。サイレンは、壁を登らなくても、事務室のパソコン操作にて鳴らすことができる。


「二人に会えるか?」

「ええ……」

「犯人像はどれくらい聞き出せた?」

「二人とも気を失っていたから……」


 鷹が事務室に向かって歩いていくと薊もついてくる。


「後方にも気をつけろ」


 思わず命令口調になってしまった鷹は、しまった相手は薊だったと思ったが、薊自身そういうことは気にしないタイプだと知っていた。


 事務室の扉を開けると、椅子に座ってぐったりしている女が二人いた。


「すまん、話を聞かせてくれ」


 女性慣れしていない鷹だが、そんなこと言っている状況ではない。どっちが秋桜でどっちが菖蒲なのかわからないが、一人は白い肌、一人は黒い肌で二人とも日本人離れしていた。


「侵入者に何をされた?」


 鷹が切り出すと、白い肌の女が身震いをする。


「わからない。こわかった……急に背後から目を隠されて、この島について教えろと……」


 この島について教えろ。ということはこの島のことをよく知らずにやって来たのか。


「声は、男か女か」

「女だよ。可愛い声」


 可愛いというのは予想外だ。若いということだろうか。


「身長は、体格はどのくらい?」

「それも目隠しされていたからわからなくて……」


 鷹はため息をつきたくなったが堪えて、次の質問に移る。


「その女に何を教えた? この島の警報を鳴らしたのはあんたたちか?」


 すると、目を閉じて背もたれに身を任せていた黒い肌の女が急に姿勢を正した。


「ごめんなさい」

「ちょっと待って。謝るのはいいから、教えて頂戴」


 薊が助言する。


「ごめんなさい。警報を鳴らしました」


 やっぱりな。ということは壁を上っていないということか。鷹が薊の方を見ると薊が頷いた。


「わかったありがとう。他に何か気づいたことは?」


 この島は民間の船が近づくことができないように、海上自衛隊によって護られている。彼らを動かしているのは言う間でもなく総理だ。海上自衛隊は防衛省の管轄で、海外からの侵略を防ぐことが主な任務なのに、小さな島一つ護る任務を言い渡されて、反対することなく実施している。防衛大臣は恐らく今回の件を知っている。その他大臣たちがどこまで何を知っているのかは不明だが、莫大な金が動いているはずだ。海上自衛隊については分厚いマニュアル本に協力の旨が記されていたが、海上保安庁については一切記載がなかった。どう考えてもおかしい。保安庁は国土交通省の管轄で自衛隊とは別だが、海の安全を護っている彼らが自衛隊の動きを把握していないはずがない。鷹はどれだけの金が動いたのかと考えると背筋が凍る感覚がした。それにしても海上自衛隊の守備をくぐり抜けてやってきた侵入者とは……。


「声が可愛いことからしてもとにかく女ではないかと思います。俊敏な動きです。まるで忍者のようだと……」


 女の忍者、くノ一が島にやって来たのか。俊敏で頭がキレて、そのうえ、ある程度の力もあると想定される。


 この島は、伊豆諸島の西側、神津島から南西に下がって北緯三十四度ほどのところに人工埋め立てで作られた。海抜は二千メートルと深く、特殊な技術で埋め立てが行われた。菫から受け取った資料に島の位置が記されていた。


 いくら極秘とはいっても、このような辺鄙へんぴな場所に島を人工で創り上げるには建設会社の力が必要だ。その建設会社の従業員もすべて口止めしているのか。ここからは鷹の推測でしかないが、島の建設にあたっては恐らく、用途は教えていないであろう。リゾート開発とでも嘘をついたのか。


 衛星写真は一体どうしたのであろうか、考えだしたらキリがない。いけない、今は侵入者確保のために全力を尽くさねば。


「わかった。ありがとう。ゆっくり休んでいて。これを渡しておくからくれぐれも注意を怠らないように」


 薊が女にスプレーのようなものを渡した。


 鷹は昔、屠殺場で働いていた経験がある。鷹が担当していたのは銃で牛の頭を狙って発砲する役だ。銃で殺すのではなく、脳震盪のうしんとうを起こさせて、気絶している間に頸動脈を切り、血を抜いて失血死させる。


 誰もやりたがらない職務を請け負った鷹は無心のまま毎日何十発の弾を撃っていた。二十代のころにその仕事をやっていることで、周りの人から気持ち悪がられたり避けられたりした。でもその人たちは平気で焼肉屋に行って肉を焼いていたのだ。


 鷹には少年期や思春期の記憶がない。ある日、ふと気付くとベッドの上で寝かされていた。隣にいたのは現総理の「すみれ」だった。


 菫曰く、病院の前で倒れていたらしい。菫の父は病院の経営者で、当時二十歳だった菫は大学で医学を学んでいた。菫は大学に通いながら、研修という形で父の病院の雑務などを手伝っていたが、記憶を無くした鷹を献身的に看病してくれた。自分の出身も年齢もわからない。ただ、唯一朧げな記憶で自分が「鷹」と呼ばれていたことだけ思い出した。


 鏡で見た自分の顔は目が釣り上がり、鼻が高くて顎が尖っている。この外見から鷹という通称がついたのか、それとも苗字や名前に鷹が含まれていたのか、何も思い出せなかった。


 菫は大学の授業が終わると、真っ先に鷹の元へ来てくれた。他愛もない話をして、体力を戻すためのリハビリに付き合ってくれた彼女はとても美しく、凛々しい顔をしていた。病院の雑務もあるので、終始一緒にいられた訳ではないが、こんな美しい女性が自分と共に時間を過ごしてくれるなんて……鷹は優越感と高揚感でドキドキせずにはいられなかった。


 菫は自分に気があるのではないかと感じたが、傲慢無礼だと首をふり、違うと自分に言い聞かせた。


 体力が回復した鷹は高松家を去ろうとしたが、菫が止めた。どこへ行くの? と問われたが、どこへも帰る場所がなかった。菫は自分の家に住んだらいいと提案するが、鷹は頑なに断った。しかし、菫が潤んだ目で鷹のことが心配だと言うので、結局根負けした。


 菫には家族がいて、父、母、祖父、妹がいた。広い家だったので、家政婦のような人も数人見かけたが、もう一人、たまに若い男が廊下を歩いているのを見た。菫に、兄がいるのか? と聞いたら、眉を下げて微笑んでいた。肯定しないところを見ると血の繋がらない別の人間が一緒に住んでいるのか。はたまた、家を定期的に訪れているだけなのか不明だったが、菫が自ら話さない限りはこれ以上余計なことは聞いてはならない。正直なところ菫以外は正体不明の目つきの鋭い鷹を信用していなかったらしく、避けていた。でも菫だけは鷹を見捨てることはなかった。妹の薊も何度か声をかけてはくれたが、「父に声をかけるなと言われている」と話した。無理もない。


「きっとそのうち記憶が戻るよ」なんて言って笑ってくれる菫は本当に綺麗な女性だと鷹は思っていた。彼女の笑顔を見ると曇った心の中に柔らかい明かりが灯った。


 鷹は菫の親戚が経営する牧場の手伝いをすることになった。昼は牧場で働いて夜は高松家で休む。そんな日々を過ごしていたが、ある日から菫が声をかけてくれなくなった。


 何事かと心配になった鷹だが、唐突に菫の父親から「ここを出ていってほしい」と頼まれ、その時に彼女が強姦に合った事実を聞かされた。憤慨する鷹であったが、自分にとって菫は家族でも恋人でもない。憤りのやり場を失った鷹はただ途方に暮れていた。


 気持ちの整理ができないまま鷹は高松家を去った。牧場の仕事も辞めて、一人のらりくらりと放浪していた。


 過疎化が進んで閑散とした駅前広場で座ってぼんやりしていた鷹に声をかけたのは一人の女性だった。


「顔色が悪いですが、大丈夫ですか?」


 季節は冬だった。粉雪が舞い、駅前の気温計は二度となっている。屈強な体つきの鷹でも寒さと空腹には勝てなかった。


「いえ、大丈夫です」

「黒田くんでしょ?」

「え?」


 突然出てきた黒田という名前に聞き覚えはない。


「小学生の時一緒のクラスだった、三方咲苗よ。覚えていない?」


 自分のことを知っている人物が現れたことに驚きを隠せない鷹だった。


 咲苗が自分の家が近いからと、鷹を招待して、温かいコーヒーを入れてくれた。

 小学四年の時に自分は突然消えたそうだ。小学三年、四年と咲苗は同じクラスだったらしい。四年生の一学期は普通に来ていた。二学期の終わり頃に突然学校に来なくなり、担任の先生も心配していた。という話を聞いたが何も思い出せない。


 咲苗の家は豪邸で、家政婦さんが何人かいた。しかし、家政婦たちが何やら鷹の姿を見てヒソヒソ話をしているようだった。


「私は……。私は一体どこに住んでいたのか、何をしていたのか何も思い出せない」


 咲苗にそう告げると、咲苗は「そう……」と言って何やら哀れみに満ちたような表情で自分を見た。


 高松家でお世話になり今度は昔のクラスメイトの家でお世話になるなど迷惑も甚だしい。鷹は咲苗の家を出ていこうとしたが、咲苗が頑なに止めた。まただ。また自分はこうやって人の世話になるのか。


 今度は止められても出ていこう。そう思い、三方家の門をくぐろうとしたところ、ある人物に引き止められた。それは咲苗の父親だった。


「君にピッタリの職があるんだが、働いてみないか?」


 連れていかれた先は、屠殺場だった。


 菫の家で暮らしていた時に働いていた牧場では食用の牛を育てていた。牛舎の掃除、餌やりなどを朝早くから行い、育った牛たちがトラックに乗せられて出荷される際はどこか物悲しいものだった。そして今度は屠殺場。


 鷹に与えられた仕事は、牛の脳天に銃を撃って気絶させることだった。気絶させた牛の喉元を掻っ切って、血を流し失血死させる。この仕事が、ピッタリとはどういう意味なのか。体が大きいからなのか、それとも何かあるのだろうか。


 咲苗の父は、食品加工会社の社長だった。だから職を斡旋してくれた。鷹はそう思うことにした。


 鷹は屠殺場で働きながら、独り暮らしを始めた。仕事はハードだったが、安定した職につけたのはよかった。夕方に仕事を終えてアパートに帰ると咲苗が頻繁に家にやって来た。和食、洋食、中華、何を作っても料理上手な咲苗は、鷹がいくら断ろうが彼の家にやって来た。そんな咲苗に次第に好意を抱くようになった鷹ではあったが、菫のことはずっと心のどこかに残っていた。


「どうして私のことをそんなに気遣ってくれるんだ?」


 ある日、鷹は咲苗にそう問う。


「……あなたが好きだからです」


 一人ぼっちだった鷹を優しく包んでくれた彼女を愛しいとも思った。しかし、鷹の本当の想い人は菫だった。


「あなたと一緒になりたい」


 咲苗は鷹にプロポーズとも呼べる言葉を告げた。鷹は優しい咲苗と一緒になる未来も悪くない。とは思ったがどうしても菫の顔がチラついた。鷹がどう返答しようか迷っているうちに、咲苗が鷹と結婚したいと思っている旨が父親にバレたらしい。


「咲苗には許嫁がいる。お前のようなくそ気味悪い奴はどっか行け」


 鷹は身を引くしかなかった。どこか遠くへ行こう。そう思い、屠殺場の仕事を辞めて、東北から去った。


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