三十、走ってばかり
明日花にいくつか質問をしようとしたが、無線が鳴る。
「囚人の一人が倒れた。至急囚人棟医務室へ」
薊は、嫌だ。と答えたかった。螺旋階段をせっかくおりてきたのに、また上るのか。階段をのぼっておりて、廊下を走って……廊下は走ってはいけない場所のはずなのに。
「わかりました」
ため息をついた薊は、「すみません、急患で一旦離れます」と言い残して、牢の前を去った。
一階にたどり着くと、雨が叩きつけるような音が聞こえる。窓の外は豪雨だった。
二階の渡り廊下を走る。エレベーターをおりてまた走る。陸上部でもあるまい。
医務室には二人の患者がいた。一人と聞いていたのに、ここに駆けつけている間にもう一人、さらに倒れたらしい。男の囚人と女の囚人が一人ずつ。男のおでこを触ると明らかに熱い。ここは一応日本だからマラリアはないと思うが、湿度が高くて暑いという条件でも様々な感染症が予測される。マスクをつけて、体温を計ると三十九度を越えている。もう一人、女の顔を見ると唇の色が真っ白だ。これは貧血だ。女の方は意識が朦朧としているようだった。
「石塚晋也を呼んで頂戴」
黒服の一人にそう指示を出した。石塚は今、赤切の火葬が終わって冷却中らしい。
冷却される骨と灰。無縁仏のそれはこの島に埋められる。
熱のある囚人の脇の下に保冷剤を挟む。
彼の喉を見ると赤く腫れて水疱ができている。ヘルパンギーナである。感染力は低い。
女の方は足の下にクッションを入れて足の位置を高くする。一応、医務室にはありとあらゆるサプリメントがある。鉄分のサプリメントを飲ませるしかない。
「せんせい……」
女が声を出した。
「何でしょうか?」
「ころして……」
薊は胸が苦しくなった。が、殺す訳にはいかない。
「死なないでください」
石塚がやって来た。
「お待たせしました」
「お疲れ様、重傷ではないわ。一人はヘルパンギーナ」
とにかく二人とも重病ではない。石塚に二人を任せて薊は再度職員棟へと帰る。走ってばかりでもうくたくただ。