三十一、嫉妬
この島で「例の人」へアクセスできるのは薊と鷹の二人だけ。しかし、鷹は今の彼女と面と向き合える自信がなかった。いや、そんなことを言っている場合ではない。
事務所のパソコンで秘密のパスワードを打ち込んで、ある人へ電話をかける。電話といってもパソコン上の電話である。
コール音が四回鳴った後、あの人ではなく見たことない女が画面上に現れ、鷹は思わず安堵してしまう。
「総理は?」
「総理は国会に出席中です。私は秘書のえりかです。どうなさいましたか?」
秘書という女は二十代くらいと若く、総理にひけをとらないくらいの美貌を持ち合わせている。
「総理と話をしたい」
「緊急ですか?」
「いや……」
「国会が終わり次第、総理にこちらに連絡するよう、伝えます。よろしく頼みます」
それだけ言って電話は切れてしまった。こちらの名も聞かずに切っていいのかと思ったが、それよりも少々腹が立った。
国民にバレてはならぬ島に侵入者が立ち入り、捕獲した。緊急事態ではないのだろうか。この状況にて電話にでないとは何事か。国会も大事だが、島に全く現れない人任せな態度はいかがなものか。
鷹は再びダイヤルする。すると六回目のコールで先程の秘書という女性が出た。
「はい」
「侵入者は囚人、三方咲苗の娘の三方明日花。母親の罪について疑問を抱いているようだ」
「それは先日、薊様からすべてお聞きしました」
美人だが表情ひとつ変えない秘書はアンドロイドなのではないかとも思える。
「三方咲苗の罪状について教えていただけないか」
鷹がそう要求するとやはり表情一つ変えずに秘書が「わかりました。少々お待ちください」と応える。
「刑法199条、殺人罪。夫の三方勇の殺害、家政婦の
そうだ、鷹は昔見た報道を思い出した。三方早苗は極刑、つまり死刑判決が出たにも関わらず、控訴をしていない。このくらい大きな事件の場合、普通は高等裁判所、最高裁判所まで不服を申し立てて戦うのが普通だが、地方裁判所の第一回目の判決を三方咲苗はすんなりと受け入れている。しかし昨日の騒ぎの際に、娘の三方明日花はこう叫んでいた。
「母さんは放火していない。家に火を放ったのは私だ!」
これが本当だとしたら三方咲苗が家に火をつけたのではない。当時十四歳の娘が放火した。その放火が原因で家政婦二人が亡くなったとなれば、三方咲苗自身の罪は、夫の勇を殺害したのみになる。もちろん子どもが罪を犯したのだから、親が責任をとらねばならない、というのはあるが、娘が言うことが本当なら、一人の殺害にて死刑判決は重いようにも感じる。
しかし、マスコミの報道では三方咲苗は全部自分がやったと証言したとのことだった。娘を守るためか。
「裁判のやり直しが必要ではないか?」
鷹が画面の向こうのえりかに話しかけると、彼女の眉がぴくりと動く。
「今更ですか?」
「真実が間違っているかもしれない」
「といいますと?」
「冤罪だ」
「冤罪ですか……」
「こちらで三方咲苗の娘、明日花が、私が放火したと話している」
「それは、母親を庇うためでは?」
「事件から既に五年経過している。それでもまだ庇おうとするだろうか。私はどうも娘が話していることが正しいような気がしてならない」
個人の感情を話してはいけない。とは思いつつも、冤罪の可能性も十分にあり得るとは思った。
「そうですね……あ」
えりかという女がカメラとは別の方向を向いたら、画面に総理の姿が見えた。久々に話すことになる菫の姿に鷹の鼓動が早くなる。恋い焦がれた美しい人。その美貌は今も変わらない。
「久しぶりね」
ほんの少しだけ口角を上げた菫に思わず見とれてしまう。
「菫さん……」
「三方咲苗の娘がそちらに行ったそうね」
「はい」
「それで、裁判のやり直しがしたいって?」
「それは今、私がそう思っただけです」
「では、御本人は希望されていないのですね?」
菫は黒縁のメガネをかけている。レンズの奥には黒い大きな瞳が見えるが、何か違和感を覚えた。
「娘の方は強く希望しているようです」
ああ、そうだ。と鷹は思う。光がないのだ。出会った頃の菫の瞳はキラキラと輝いていたが、テレビ電話越しでもわかる。黒目は本当にただの漆黒の黒で光を失っている。
「御本人が希望なさらないのなら再審は不可能です」
冷たく言い放つ菫は、やはり鷹の知っている菫ではなかった。
「正直に申し上げると、まだ本人には確認をとっていません」
菫の眉尻がぴくりと動く。
「ならば確認をとってください」
どこか怒っているような口調なのは気のせいだろうか。
「わかりました」
「鷹」
名前を呼ばれると、ドキリとした。鷹はやはり珍しく動揺している自分に気づく。
「何でしょうか?」
「個人的な感情はなしで業務にあたってください」
言い方は柔らかいようだが、やはり何か怒気をおびている。
「承知しました」
鷹はそう言って、通信終了をクリックした。いつの間にか額に冷や汗をかいていることに気がついた。亜熱帯の暑い島だが、単純に暑くて出た汗とは違う。
心を落ち着けて、鷹は再び地下への螺旋階段をおりていった。娘にこの島に侵入した経路についても尋問せねばならぬ。
牢の中で、何年分の話をしたであろう三方親子の声が聞こえてくる。
「母さんはどうして、自分がすべてやったなんて罪を認めたの?」
「それは……」
「火をつけたのは私なんだよ」
「そうだけど、でも計画を立てたのは私とあなた二人で、しかもあなたはまだ十四歳だった。親が責任をとるのは当然でしょう?」
鷹は足を止めて、息をひそめた。
「でも、そのせいで母さんは今こんな酷い島にいるんだよ」
「そうね……」
「闘おうよ、真実が伝われば母さんはこの島を出られるかもしれない」
「明日花……」
鷹は再び歩き始めた。コンクリートの階段を一歩一歩踏みしめる。足音に気づいたのか二人の声が聞こえなくなった。牢の前にやってくると、鷹は床に腰をおろした。
「貴様……」
明日花が獣のようにこちらを睨みつける。
「三方咲苗、今の話は本当か?」
鷹は咲苗の方を見た。
「家に火をつけたのはあなたではなくて娘だと」
咲苗の生気を失った瞳に光が戻ったように見える。娘と会えたことで生きる力を取り戻したのだろうと思ったが、今は困惑しているようだ。
「聞いていたのね……」
「そうだよ火をつけたのは私だ。だから母さんがこの島にいるのはおかしいんだ」
綺麗な二重まぶたと少しだけぷっくりした頬が若いころの彼女を彷彿させる。
「総理に直接その話をしましょう」
鷹の提案に三方親子は目を丸くした。
「直接って……」
「できるわよ」
突然階段の方から声がしたので驚いた。そこにいたのは薊だ。
「あー、やっとここに来れた。姉さまが一週間後にこちらを視察するそうです」
身長百七十近くある薊は白衣姿でも腰のくびれがわかる。
「視察ですか」
「ええ、たった今連絡がありました」
「総理の野郎がくるんだな」
明日花の目に火が灯っている。
「野郎って、総理は女の人よ」
意外にも咲苗がそうたしなめる。咲苗には、高松家で生活していたことを一度も話したことがない。
「そうね、野郎ではないわ。あなたが暴言を吐くと立場が悪くなってしまうから、言葉を慎んで」
少々お疲れな様子の薊は壁を背もたれにしている。
「妹の方は随分できが良いみたいだけど、姉はなんであんななんだ?」
「ごめんなさい。私が謝るのも変だけど、でもやっぱりそういうこと言うと立場が悪くなるかもしれないから、とにかく穏便によろしく」
鷹は胸が高鳴るのを止められずにいた。苦しみと嘆きの島でまさかこんな感情を味わうなんて。いや、違うと鷹は精神を集中した。
青春時代ではない、もう粋も甘いも体験した中年のおじさんの自分に、彼女が反応を示す訳もない。そして彼女も昔の彼女ではない。別人であると自分に言い聞かせた。
「三方咲苗」
鷹は業務的に彼女の名前を呼んだ。
「はい……」
「すまないが、そろそろ娘と別れてほしい。娘に尋ねたいことがある」
「娘に乱暴なことはしないで下さいますか?」
咲苗は犯罪者とは思えないほどしっかりしている。
「もちろんだ」
咲苗は微笑を浮かべて、牢から出た。
「母さん……」
「心配しないで。また会えるから」
咲苗を薊に託して、鷹は牢の前に残った。