三十三、視察
真心はいつもどおり、職員棟の玄関付近を掃除していた。腰はまだ傷んだが、それでも歩けないほどではない。仙台和菜は相変わらず無表情のまま廊下にモップをかけている。ついこの間、仕事を辞める決心をしたが誰に言っていいのかわからず、完全にタイミングを失って、数日が経った。黒服に自分から話しかけたくはない。唯一この島でまともに会話したことのある石塚晋也はバイトだし、医師に言うのが一番よいかもしれない。
朝食後に館内放送で、明日、総理が視察に来るとアナウンスされていた。視察前日だからなのか、二人で掃除をするよう命じられた。
テレビやネット動画でしか拝見したことのない総理大臣がこの島を生み出した張本人だとしたら、とんでもない悪趣味だと真心は思う。
あれから五日経ったが、三方親子がどうなったのか誰もそんなことは教えてくれないし、いつもどおり朝が来て、囚人たちは壁の向こうで拷問を受けているのであろう。掃除を終えると、真心は未だ気心がしれない仙台と一緒に廊下に丹念にモップをかけて、窓も拭いた。
玄関まわりの掃除を終えると今度は共同トイレの掃除をする。総理が来て、この島を視察してだからどうだっていうのだろうか。まぁすごい、結構なことよ、いい気味だわ。そんなセリフでも吐いて帰るのだろうか。
今すぐ本島の人たちに総理の裏の顔を知ってもらいたかった。真心たち国民はとんでもない人を総理大臣に押し上げてしまったのだと。そこまで考えて、ふと、あれ……辞めると決めたのにこの島のことを考えている自分は、もしかしたら洗脳されているのかもしれない。と不安になる。辞めるって今日こそ言おう。薊医師はどこにいるのだろうか。
仕事の契約は一ヶ月なので、どのみちあと十日ほどで勤務は終了する。それでも一刻も早くこの島を出た方がいい。
当然のことながら、勤務を終えて横浜に戻ったところで口が裂けてもこの島の事実については言えないであろう。下手したら口にした瞬間に暗殺されるかもしれない。初めてこの島に来た際に、この島のことは誰にも話してはならないと黒服から伝えられたが、言われなくてもそうするであろう。
清掃を終えて、食堂に帰り、いつものように給食当番のような白いエプロンを着用した。
「渡倉さん」
滅多に声を出さない仙台が真心を呼んだ。
「は、はい」
「あなた、一ヶ月でこの島を去るの?」
仙台の質問に思わずドキっとする。自分の心を見透かされたようだ。
「はい、帰ります」
珍しい、いつもは私語厳禁でこんな話などしないのに。と真心は不思議に思ったが、一緒に仕事をしているのだからこれも業務の話か。
「そう、私はこの島に残るわ」
「えっ⁉」
「私は三ヶ月の契約になっているの。六月に入るまではここにいる」
「そうなんですか……」
「あなたはまともな人間みたいだから帰った方がいいわ」
仙台さんはまともじゃないんですか? と聞き返したかった。
「仙台さんは……平気なんですか?」
「何が?」
「何がって……この島が」
「ああ、私は大丈夫よ」
何がどう大丈夫なのか。
「お金が必要なんですか?」
真心は思い切って聞いてみた。
「そうよ。あなたもそれで働き始めたんでしょ?」
その通りだ。時給三万円の仕事なんて他にはない。ここで一ヶ月働いたらしばらく暮らしには困らない……と当初は思っていた。しかしこんな島、一刻も早く抜け出したい。例え時給が低くても、もっと世のため、人のためになる仕事をした方がよいに決まっている。
仙台はそんな真心の気持ちも読んだみたいだ。
「帰っても絶対この島のことはしゃべったら駄目よ」
「もちろんです。わかっています」
帰った瞬間すべての記憶が消えてほしかった。真心はほんの少しだけ水釘のことが気になった。自分の姉を殺した犯人で本来ならもっと憎むべき存在なのだろうが、恐らく真心が幼いころに亡くなって、姉の記憶が希薄なことが原因で、恨みの感情をひどく抱いたことはない。いや、それより……姉はもちろん他の児童たちも殺されたことを思うと胸が痛いが、無差別殺人というものが理解の範疇を超えている。なぜ(・・)、そう(・・)なった(・・・)の(・)か(・)。という理由が全くわからないし、考えると頭の中にモヤがかかってしまう。
二人で昼食の後の皿洗いをしていた。仙台が珍しく話したのはそれだけだった。
調理室で黙々と作業をしていると、失礼します。という声と共に大きなリアカーを引いた人がやって来た。それはあの日、真心を助けようとしてくれた石塚だった。
「食材を置いておきます」
いつもなら黒服がやってくるのに、どうして今日は石塚なのか。
「ありがとう」
そんな真心の疑問をよそに、リアカーから手早く荷物をおろした石塚は去っていこうとした。
「あ、待って!」
思わず真心が呼び止めると石塚が振り返った。
「あの……この間はありがとうございました」
真心はお辞儀をする。
「もう腰は大丈夫なの?」
「はい、なんとか」
「そっか」
そう言って石塚は少しだけ微笑んだ。たったそれだけの会話でも、ほっとする。石塚がいてくれてよかった。
翌日、空は快晴だった。総理は午前十一時ごろにヘリコプターでこの島にやってくると聞いた。彼女の昼ごはんも用意することになっている。しかし、昼ごはんのみで夕飯は用意しないので、昼の間だけ滞在して夕方には去る気なのだろうか。自分でこんな島を作っておいて僅か数時間の視察のみで帰るなんて、真心には信じられなかった。日本はいつから独裁国家になったのか。ずっと民主主義国家だったのに総理がこの島を作ろうと言い出したのに対して周りの人たちは反対しなかったのか。
囚人というと警察も大きく関わっているはずだ。警察のお偉いさんもこんな話に賛同したのか。そう考えるとなんだか目眩を覚えた。
ヘリポートは職員棟の側にあるので、昼ご飯の支度を始めるころにヘリコプターの音が近づいてきたのがわかった。
正午、鐘の音が聞こえると昼休憩だ。いつものように職員用のテーブルに皿やお箸などを並べる。特別にご馳走という訳ではない。だって今日のメニューはソースやきそばだ。十二時を過ぎて一人、二人と食堂に集まる職員たち。今日は昼のメニューが三人前多い。
時計の長針が二を指すころ、二人のガードマンと一緒に総理がやって来た。総理は、薄いベージュのスーツを着用していて、テレビやネットで見たのと同じ、美しい顔とスレンダーな体型をしている。ボディーガードの二人も女性で、こちらは黒いスーツを着用しているので、真心の眼には黒服の女たちに見えた。総理は辺りを見渡したあと、着席して焼きそばを食べ始めるのかと思いきや、まずはボディーガードの二人が焼きそばを頬張り始めた。そして五分ほど経過してから初めて箸を持ち、焼きそばを口に運び始める。
その様子を見ていた真心は、ああ、もしかして毒が盛られていないか確認したのではないか。毒なんて盛る訳ないのに、と少し嫌な気分になった。
しかし、国の首相というのはそういう立場なのかもしれない。令和が始まってすぐ、真心の祖母や祖父が生まれたころに安藤総理大臣が突然銃で撃たれて亡くなった。それから、総理の護衛は強化されている。実際今、焼きそばを食べる総理の両サイドにボディーガード、さらには後ろの二人の黒服、前にも黒服がいて、総理は囲まれている状態である。
真心は無理だって思った。毎日いつ暗殺されるかもわからない、護衛がいないと過ごせないような生活でよく平気だな。
そんなすごい人のはずなのに、食べているものがB級グルメの代表、焼きそばなんてなんか滑稽だ。
昼食を終えた総理が席を立とうとすると一人の男性が食堂に入ってきた。食堂で見かけることのある大きな人だ。鋭い目つきに高い鼻、長いまつげとシャープな顎が特徴のその人は、総理に向かってひざまずいた。
「久しぶりね、鷹」
あの人の名前は鷹というのか。見た目からもしっくりくる名前だ。
「総理にお話があります」
何やら二人の間にある空気は「初めて会った」という感じではない。現に先程、総理の口から久しぶりという言葉が出ている。総理と鷹は昔からの知り合いなのか。
「わかりました。ここでは何だからどこか人気のないところに案内して頂戴」
「かしこまりました」
鷹と総理、そしてボディーガードの二人が食堂から去っていった。そして黒服の女たちは何事もなかったかのように自分の席につき、冷めた焼きそばを口に運び始めた。
「ちょっと、ぼうっとしないで片付け」
仙台にそう言われてハッと我に返った真心は、空いた皿を調理場の流しへと引っ込める。