三十五、理由
鷹は自分のプライベートルームに総理を招きいれた。
「こんなところですみません」
「いえ……悪いけど席を外してくれないかしら」
総理は二人のボディーガードにそう告げる。
「しかし、お一人では危険では……」
「大丈夫だから」
「了解しました」
そう言ってボディーガードの二人は部屋から出ていった。静かな部屋にたった二人だけになった鷹は少し緊張していた。
「本当に久しぶり」
「菫さんこそ、ご立派になられて」
「そういえばそんな名前だったわね。周りが総理、総理って言うから最近自分の名前も忘れちゃった」
しばし、二人は見つめあう。
「幻滅してる?」
「え?」
「私のこの政策に幻滅してるかしら?」
鷹はなんと答えていいかわからなかった。
「あの後、一体何があったんですか?」
鷹の知っている菫は、優しくて素朴で、いつも笑顔で謙虚だった。今目の前にいる彼女も綺麗だが、こんなに化粧が濃くはなかった。と鷹は思う。
「ごめんね、勝手なことばかり」
勝手なこととは、菫は自分の行いを客観的に見ているではないか。自分のやっていることが決してよいとは言えないことがわかっていて、それでも︙︙。
「……九十九晶……」
菫が小さな声で囁いた。その名を聞いた鷹はゾッとした。
「まさか九十九のために」
「私一人ならそこまでしなかった」
「というと?」
「……この島に妹がいるわ」
「薊さんですか」
「ええ、私が被害を受けた後、妹も被害を受けたわ。それだけじゃない、彼は今まで何人の女性を不幸にしたのかしら」
「……」
鷹は何と返答していいのかわからなかった。
「九十九が逮捕されたのは妹のおかげなの。薊は被害を受けている間、九十九にバレないようにスマホですべて録音をしていた。それが物的証拠となって彼は逮捕されたわ。薊は恥ずかしいとか格好悪いとかそういうすべてより、犯人を捕まえることを優先してくれた」
菫は、窓から離れたところにいる。これも警戒しているからなのか。窓のそばにいれば外からライフルか何かで撃たれる可能性がある。と思っているのか。
「九十九晶が逮捕されて、無期懲役刑になった。わかっているだけでも三十人以上の女性に暴行を加えて無期懲役は甘い気がしたの。実際、性被害だけではなくて、彼に無理やり押さえつけられたせいで怪我を負った女性も何人もいたの。それに、性被害は被害者が届けを出さない場合も多いから、実際には被害を受けた人数はもっと多いんじゃないかって」
「それで法を改正したくて?」
鷹の質問に、菫が柔らかく笑った。
「あなたは大丈夫だけど、まだ未だに男性は怖いわ」
国会議員は女性より圧倒的に男性の方が多いのではないか。そんな鷹の思惑を読んだのか菫はこう続ける。
「議員になってからも変な眼で見てくる人が多くて」
それは、菫がそれだけの容姿を持ち合わせているということだ。
「それなら強姦の罪のみ重くすればよかったのでは?」
思わず口から出てしまった鷹の質問に菫は何を考えているのか、微笑を浮かべたままだった。わからない。若き日の彼女の瞳はキラキラしていたが、何か濁ったものに侵されていた。それはまるで赤と青と緑と黄色をすべて混ぜた絵の具のような、不透明な濁り方だ。
「鷹はどう思う、無期懲役刑って」
「……どう思うと問われても」
「私は思うの。だって、刑務所の中とはいえ栄養のあるものを食べて、眠る場所もあって、死刑囚なんて、刑が執行されるまで割と自由に過ごせると聞いている。そんなのあり得ないわ。その間も被害者たちは苦しんでいるっていうのに」
菫の言うこともわからなくはない。被害者は心に傷を負い、名前をマスコミにさらされて、ずっと『被害者』というレッテルを貼られて生きていくことになる。
「菫さ……ごめんなさい総理」
「菫でいいわよ。名前を呼んでくれるのなんてあなただけだから」
「菫さんに会ってもらいたい人がいるのです」
「それって例の」
「はい、この島に侵入した三方咲苗の娘、そして本人です」
「本人とは、三方咲苗自身も?」
「はい」
菫の顔が一瞬曇った。
「わかりました、会いましょう」
鷹はあまり気が進まなかったが、地下牢まで菫を案内する。そして、無線機で咲苗も連れてくるように命じた。三方明日花はどうするのだろうか。感情的になって無茶苦茶なことを言わないかと鷹は懸念していた。
この間、明日花に尋問した。どうやってこの島までたどり着いたのか。彼女は運搬される荷物の段ボールの中に潜んでいたらしい。どうやって封をしたのかと尋ねると、封なんかされていない。と答える。運送会社のずさんな管理が明らかになった。
なお、運送会社への尋問は電話で行われた。この島には、インターネットの電話しか繋がらない。通常のスマートフォンは没収しているが、基地から離れているのですべて圏外である。運送会社の「わからなかった」という答えは本当か否か。
三方明日花の証言によると、人の目を盗んで船に乗り込み、積み荷の段ボールの中に身を潜めていた。船が速度を落とすと、島が近いと判断し、段ボールから出て、船から海へ飛び込んだ。その際、船の中にあったロープを一つ拝借したらしい。
海抜二千メートルの海に飛び込むなど自殺行為だ。その後、荷物の搬入が終わり、船が再び発進して黒服たちが港から去るまで待っていたらしい。
海には海流というものがある。海流に巻き込まれることなく泳ぎ続けていた彼女の体力と泳力は並大抵ではない。彼女は海の上で立ち泳ぎの状態でロープの端を丸く縛り、人気のなくなった港に向けて放り投げた。そのロープをつたって上陸。
超人のような体力は、自然の中で身につけたらしい。十四歳で住む場所を失った彼女は山の中で野生同然で暮らしていた時期があったと話す。
尋問に対して素直に応じたことは驚いたが、素直に従った方が母の解放に有利だと判断したのだろうか。
牢の中で明日花は正座のままじっと座っていた。
「はじめまして、総理大臣の高松菫です」
牢から二メートルほど離れたところで背筋を伸ばした菫がそう挨拶する。
「……」
黙ってはいるが、まるで腹をすかせた虎のように狂気を帯びていた。何も返事しないところをみると、暴言を吐きたいのを必死で我慢しているようだ。
「公平に話し合いましょう」
菫はそんな明日花に全く怖気づく様子はない。
「母さんを今すぐ解放してください」
三方明日花の手錠で繋がれた両手が小刻みに震えている。
「今すぐには、はいとお答えできません」
明日花は平静を保っているつもりだろうが、明らかに顔が歪んでいる。
「いつならできますか?」
「あなたのお母さんが再審を希望しない限り、判決が覆ることはありません」
「家に火をつけたのは私だ」
「それは、今ここで言ってもどうにもなりません」
「母さんを解放してくれたら私がこの島に残る」
強い子だ。と鷹は思う。
「私は総理大臣です。裁判官でも警察官でもありません」
「この島に来る、来ないはお前が決めるんだろ?」
だんだん口調が荒くなってきた。
となりにいたボディーガードの女が口を挟んだ。
「お前とは、何様だ」
すると菫がボディーガードの女を制する。
「大丈夫よ。私は国民一人一人の声を聞きたいから」
そこへ、黒服に左右の腕を掴まれた三方咲苗が到着した。総理はそちらを向いて、きちんと礼をする。
「はじめまして、総理大臣の高松菫です」
髪は抜け、歯は抜け、傷だらけの咲苗だが、自分の足でしっかり立っている。
「あの……、娘が暴言を吐いて申し訳ありません」
咲苗が頭を下げた。
「母さん、こんなヤツに頭を下げなくていいよ」
鷹は信じられなかった。母親だ。こんな姿になっても娘の暴言を詫びて、母としてちゃんと立っている。体が震えた。
檻の中で大人しくなった明日花を見て菫が笑顔を浮かべた。
「いいお母さんね」
「……あの、暴言を吐いたことはすみません。でも放火は私がやりました。事実です」
「それを証明するものは?」
言い返された明日花は少したじろぐ。
「ないです」
菫は、咲苗の方を向いた。
「三方咲苗さん。あなたは、すべて自分がやったと自供しました。それは事実ですか? それとも娘を庇うための嘘ですか?」
咲苗は明日花の方に目線をやる。返答に困っているようだ。
「一度調べ直してみてはどうでしょうか?」
思わず言葉が出た。菫がこちらを向く。
「鷹、あなたは黙っていて」
「いえ、黙っていられません。もし冤罪があったとしたら、それは暴かねばなりません」
菫の表情が険しくなった。
「確かに、冤罪は日本警察の恥ね」
論点が違う。と鷹は言いたかった。日本警察の恥というのは、日本警察にとって冤罪がどうかの話である。そうではなくて、冤罪で無罪なのに刑務所に服役中の人、または、罪が重くなっているケースで、当人の気持ちを考えてほしいという言葉が喉元まで出かけていたが、飲み込んだ。
しばらく沈黙の時間が流れる。
「あなたを本島に返します」
鷹は耳を疑った。菫が認めた。それは誰を思って何のためにかはわからないけど、傷だらけの咲苗を見ているのが辛かった鷹はほっとした。
鷹は菫に恋している。その自覚はあるのだが、咲苗に対して全くそういった感情がない訳ではない。少なくても自分を救ってくれた恩人でもある。
菫が無線機で薊にその旨を伝えた。そして、一緒にいたボディーガードに対して、何か耳打ちした。
「ヘリを手配します。三方咲苗、及び娘の三方明日花は一度本島に帰り、再度事件の真相を調べる方針にします」
その言葉を聞いて、明日花の表情が和らいだ。
「母さん、帰れるよ!」
三方咲苗は涙を流していた。
「鷹、こちらへ来て頂戴」
菫はそう言って螺旋階段を上がっていくが、ボディーガードの二人は突っ立ったままだ。突然呼ばれた鷹は慌てて菫の後を追う。
螺旋階段をどれくらい登ったであろうか、牢も地上も見えない、ここは地下一階あたりかと思った瞬間、菫が鷹に抱きついた。
「えっ……」
あまりに唐突で言葉を失った鷹は困惑する。
「鷹、あなたは私のことが好きですか?」
思いもよらない質問に鷹の困惑は増すばかり。身長百八十センチの鷹に対して、菫はおおよそ百七十くらいで、鷹の肩に菫の頬があたっている。
「どうなさいました……?」
「質問に答えて頂戴」
鷹は迷った。好きか嫌いかと問われたら好きに決まっている。
「ええと……」
「嫌いなの……?」
生まれてこのかた、一度も人に向かって好きだなんて言葉を使ったことがない彼はまるで恋を覚えた十代の少年のようにおどおどしく言った。
「すき……です」
菫の手が鷹の大きな背中に置かれている。顔は見えないが、とても温かくて、香水の匂いが感覚を狂わせた。しかし、気配を感じて、鷹は慌てて階段の下の方を見た。そこには二人のボディーガードに抱えられた咲苗がいた。慌てて菫の体を引き剥がしたが、咲苗は沈痛な面持ちでこちらを凝視していた。思わず鷹は目を逸らす。
「さあ、地上へ上がりましょう」
何事もなかったかのように菫が階段を登り始めた。わざとなのだろうか。困惑する鷹は黙って階段を登った。
地上に出た鷹と総理、そして二人のボディーガードは拷問場へと向かう。咲苗は黒服にお願いして医務室へと運ばせた。
拷問場に近づくと何かが焦げるような匂いと悲鳴が聞こえていた。『
「熱い!」
「痛い!」
くすぶるように燃えている藁と煙で目が痛い。囚人たちは磔にされた状態で、総理の姿を見つけて口々に叫んだ。
「何しにきたんだ⁉️」
「おい、総理大臣、いやお前はただの悪人だ!」
「ババア、頭おかしいんじゃないのか⁉️」
囚人たちの野次にボディーガード二人が腰につけたベルトからスタンガンを取り出す。
「やめなさい」
総理が制するとボディーガードたちはスタンガンを引っ込めた。
「好きなだけ言わせておけばいいわ」
苦しむ囚人たちを観ながら、微笑を浮かべる菫を見て、鷹は先ほどの自分を恥じた。なぜ自分はここにいるのか、何のためにいるのか。誰のためにいるのか。