三十六、敗者
地上まで上がった咲苗は医務室で治療を受けた。しかし、消毒液を塗られても全くしみない。咲苗の脳裏にはさきほどの光景が焼き付いていた。
「どうしたの?」
治療をしている薊も、心ここにあらずの咲苗が気になるようだ。
「せっかく拷問の日々から解放されることになったのに、浮かない顔をしてるわね」
剥がされた指の爪が少しだけ新しく生えてきていた。
「髪も爪もまた伸びるわよ」
まるで中学生のようだと咲苗は思う。好きな男の子が他の女の子と抱き合っている姿を目撃してしまう。陳腐なドラマのワンシーンのようだ。
「薊先生はおいくつなんですか?」
「私? 私は三十九よ。今年四十になるけど」
総理大臣の年齢は四十一歳で自分より一つ歳下だと記憶している。初めてテレビで彼女の顔を見たときに咲苗は疑問に思った。この人はなぜ、モデルではなくて政治家になったのだろうかと。
勝てない、どう頑張ってもあのプロポーション、美貌、カリスマ性、何一つ勝っていないどころか、髪は抜け、傷だらけ、肌はカサカサの自分が惨めで、咲苗は泣き出した。
「辛かったわね……」
違うの先生。拷問の日々を思い出して泣いているんじゃないの。咲苗は負けた。と思っていた。大切な人の心を掴むことはできない。
すべてが走馬灯のように頭の中を駆け巡る。鷹と過ごした日々、無理やり政略結婚させられて、勇と暮らすようになった家、明日花を産んだ日のこと。咲苗が長い間閉じ込められていた部屋、燃える家、血を流して倒れる自分の夫……。
「明日、ヘリコプターで総理が帰還するので、あなたと娘さんも一緒に乗ってもらいます」