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第13話 13番目のお姫様 2/9

 ミラは窓ガラス越しに兄の車が先発するのを見送った後、ミセス・カレンに声をかける。


「ねぇカレン。どうしてイヴァンお兄様とは車が別なの?」


 大好きな兄と別の車に乗らされたミラは不満そうにカレンに聞いた。

 ミラの車には、後部座席にミラが1人、助手席にはカレン、運転席にはいつもにこにことほほ笑みを絶やさない運転手のおじさんが乗っている。

 メンバーに不満があるわけではなかったけれど、イヴァンと同じ車に乗りたいというのがミラの本音であり希望だった。


「安全のためでございます」


 カレンはきっぱりと言った。


「……安全?」

「えぇ。もし1台に皆様が乗っていて、車が故障したり、危ないことが起きたりしたら大変でしょう? だから、2台に分けておきますと、もし1台に何かあってももう1台は大丈夫なので、みんなを守れます」


 ミラは、わざと凄く嫌そうな顔をバックミラー越しに披露して見せる。カレンはそれに気付いてため息をついたが意見を変えなかった。


「そんな顔されなくても滅多なことなんて起こりませんよ」

「……でも、イヴァンお兄様と一緒が良かった」

「すぐにお会いできますから、しばらく我慢なさってくださいませ」


 幼いミラはすぐに納得はできなかったが、聞き分けだけはよかったので「はぁい」と返事した。


 *


 イヴァンの乗った車が発ってからしばらくして、ミラの乗った車もまだ霧のかかった朝の空気を切り裂くように王宮を後にした。

 ミラは大人が3人座っても余裕があるほどの後部座席の真ん中に1人で座っていた。まだ背が低いため、座席のソファの背もたれは広く開いている。


「ねえカレン。私が上手に祝辞を言うことができれば、お母様は褒めてくれるのかな?」


 ミラは座席に深く腰掛けながら助手席のカレンへ声をかけた。

 カレンは「大丈夫ですよ」と言いながらバックミラー越しにミラに向かってにっこりと微笑む。


「きっとお褒めくださいますよ。そしてとてもビックリされます。なんたって、王妃様はミラ様が本日公務に出られることをまだ存じておりませんから」

「えぇ? そうなの?」


 ミラは苺キャンディのような目を大きく見開いて驚いたが、カレンは笑顔を崩さなかった。


「お父様は、ミラ様がしっかりと公務をこなす姿を見せれば、お母様も少しはミラ様の子育てから肩の力を抜くだろうとお考えなのです。今日しっかり公務をこなせばきっと褒めてくださいますし、遊ぶ時間も増えますよ?」


 カレンはとても真面目な口ぶりだったが、練習不足を自覚しており不安まみれのミラにはとてもそうとは思えなかった。


(でも、お母様は私が失敗したらすっごく怒るのよ。それはカレンだって知ってるのに……)


 ミラは助手席のカレンに目を向けたが、そこにはいつもと変わらない厳格な表情があるだけだった。

 静かな車内でかすかに聞こえるエンジン音に耳を傾けながら、ミラは憂鬱そうに窓の外の景色を眺めた。

 まだ霧の残る朝の空気が、木々の間を白く染め、遠くの街並みをぼんやりと霞ませていた。いつもなら美しいと思う景色も、今はただ重苦しく感じられた。彼女の小さな指が、新緑色のワンピースの裾をぎゅっと握り、緊張を隠しきれなかった。


 カレンはスケジュール調整で忙しいのか、携帯電話から目を離そうとしない。

 画面に映る文字を追う彼女の指が時折動き、時折眉を寄せる様子がバックミラー越しに見えた。

 恐らく様々な部署から事細かに情報の伝達が行われているのだろう。

 ミラにはその内容が分からないが、カレンの真剣な表情から、何か重要なことが動いているのは感じ取れた。

 しかし、その間、カレンがミラに目を向けることは一切なかった。いつも厳しくも優しいカレンが、今は遠くに感じられた。それもまた、ミラを少し寂しく感じさせる要因の一つだった。


(イヴァンお兄様と一緒の車が良かったなぁ。それならきっと祝辞の練習もできたし、もう少しリラックスできたのに)


 ミラの頭に、大好きな兄の優しい青い目が浮かんだ。イヴァンなら、きっと車内で一緒に祝辞を練習して、ミラの緊張をほぐしてくれたかもしれない。

 ミラのルビー色の瞳が窓の外を見つめ、寂しさが小さな波となって胸に広がった。


 だが、そんな退屈と憂鬱に浸っていたミラを驚かせたのは、運転手による突然の急ブレーキだった。

 キキーッ! とタイヤが地面と摩擦しながら甲高い音を立て、車が急停止すると、ミラは思わず身が投げ出されそうなほどの衝撃を受けた。

 シートベルトが小さな体をぎゅっと締め付け、彼女の金髪が乱れて顔にかかった。

 心臓がドクンと跳ね上がり、ミラは慌てて体を起こした。

 助手席のカレンも同じ衝撃に驚いたようで、思わず携帯電話を膝に落としていたが、すぐに運転手に鋭く問いかけた。


「何事ですか!」


 カレンの声が車内に響き、普段の穏やかさとは裏腹な緊迫感が漂う。2人はすぐ状況を把握するために動き出したが、ミラには2人が何で焦っているのかがすぐ理解できなかった。

 彼女の大きな目が車内を見回し、窓の外に目をやった時、異変に気づいた。

 警備のためにミラたちの傍に同行していたはずの黒塗りの車両が数台、急にスピードを上げて前方へ走り去っていくのが見えた。その車列が霧の中をかき分けて遠ざかる様子は、まるで何かを追うかのようだった。


(まさかお兄様に何かあったんじゃ)


 ミラの背中には冷たいものが流れ、小さな手が座席の革を握ると息を呑んだ。

 車内の空気が一瞬にして重くなり、彼女の胸に冷たい不安が広がった。

 カレンが運転手に何かを尋ねる声が聞こえたが、ミラの耳にはその言葉がぼんやりとしか届かなかった。外の景色が急に不気味に感じられ、彼女の小さな頭が急速に動き始めた。


「ねえ、何があったの!?」


 ミラの声が車内に鋭く響いた。

 急ブレーキの衝撃でまだ胸がドキドキしている中、ミラはカレンに問いかける。

 だが、カレンは振り返り、いつも通りの落ち着いた声で「大丈夫でございます」とミラに微笑んで見せた。


「しつけの悪い方々が、少々皇太子へ無礼な振る舞いをなさったそうです」


 カレンの口調は軽やかで、まるで近所の子供がいたずらをした程度の出来事を話すようだったが、彼女の言葉に驚いて一瞬ミラは息が止まった。

 イヴァンお兄様の車に何者かが加害をしたということのはずなのに、カレンがまるで他人事のように軽やかに笑っているのが不気味だった。

 ミラの頭に浮かんだのは兄の優しい青い目と、朝に見せた温かい笑顔だった。優しい兄が無事なのかが気になって仕方なかった。


「お兄様は大丈夫なのですか?」

「どうぞご安心くださいませ。ミラ様のお兄様には特に優れた護衛が付き添っております。既に事態は収束したとのことでございます」


 その言葉を聞いて、ミラの肩から力が抜けた。彼女は小さく息を吐き、胸に溜まっていた重い不安が少しだけ溶けるのを感じた。


「……それなら、いいのですけれど」


 ミラは安心してため息をつき、座席の背もたれに体を預けた。

 そして、ついさっきカレンから聞いた『車を2台に分ける意味』について、こういうことが起こり得るからなのかと身をもって知った。

 もしイヴァンと一緒に乗っていたら、自分も危険に巻き込まれていたかもしれない。

 ミラの小さな頭がその事実を噛み締め、車内の静寂にエンジンの低い唸りだけが響いた。


(安全のためって、こういうことなのね)


 ミラは予定通りウェストメイン・スクールに行くのかも、王宮に帰るのかも伝えられず、心細い状況にさらされた。

 もしこれが大人になったミラならばもっとたくさんの情報が手に入ったはずだし、ミラも何かしらの指示をしただろう。

 だがまだ子供のミラは状況も分からないし、何の決定権も持っていなかったため、カレン達の判断を待つしかなかった。

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