(あぁ、緊張する。俺なんかがいきなり本番だなんて)
9月1日正午。
この国では、そろそろ気温が20度に届かない日も増えてくる頃だ。だが、マイロは制服の下にタクティカルベストを着込んでいたため、体はじっとりと汗ばんでいた。
何度も手のひらの汗を拭いながら、彼は最終調整に集中する。準備運動は済ませてあるし、校内の構造も頭に叩き込み、部隊とも情報共有済みだ。
在学中から多少の変化はあるかもしれないが、保守的なことで知られるウェストメイン・スクールが、そう簡単に改修を施しているとは思えない。心配しすぎる必要はないだろう。
突然の実戦投入というのは不安ではある。
しかし、緊急時を除いて戦闘は避けていいという指示を受けていたぶん、少し気は楽だった。
――『人を殺す』という選択は、できることなら避けたい。
マイロの心からの本音だった。
(……それにしても、中学生に変装して潜入なんて正気の沙汰じゃない。誰が考えたんだ、こんな作戦。お粗末にもほどがある)
作戦の成否に疑問は残るが、ここまで来てしまった以上、やるしかない。マイロはパンッと両頬を軽く叩き、
「よっしゃ、行くか!」
と、普段の自分には似合わない気合いを入れてみせた。
(この事件を利用して、俺は人生をやり直すんだ。お嬢様だか、パッケージだかボックスだか知らないけど……一発逆転してやる)
だが、ちょうどその時だった。
「伝達ー!」
突如、救出班全員の耳に響く大声。
マイロが振り向くと、顔を真っ赤にした若い警察官が敬礼しながら叫んでいた。
「人質が3名解放されました! まずは3名の生徒の保護に向かってください! とのことです!」
*
「えぐ、えぐ、怖かった。怖かった……」
一番最初に解放された女の子のうちの1人は、泣いてはいるものの比較的落ち着いており、解放された数人の子供の中では一番話ができそうだった。
飛び込んできた警察官の力を借りつつも、特殊部隊は潜入よりも先に事情聴取を行った。
「ステファニー、もうここは安全だ。でも、みんなを救うためにおじさんたちは中の様子を知る必要がある。話を聞かせてくれるかい?」
「ハイ……うぐ、えぐ……」
ステファニーという女の子は渡された鼻紙でチーン!と鼻を噛み、差し出されたジュースを飲んでことで少し落ち着いたところだった。
「犯人、でいいんですか? セレモニーホールに犯人は全員で9人いました。他の部屋は分かんないけど、たぶん他にもいると思います。最初、みんなで集まってたら保護者が髪が長くて汚いおじさんが、逃げようとしたら殺すって脅してきて……」
「そのおじさんはこの写真の中にいるかい?」
「……はい、この真ん中の写真のおじさんです」
事前に共有された犯人組織の一覧にあった顔だった。
やせていて目がくぼんでいて、薬物を普段から摂取しているのだろうというのが分かる、明らかに裏世界の人間だ。
「それで……、舞台袖に女の子がいるのがちらって見えたんです。うちってほとんど同じ小学校から進学するはずなのに、知らない子だった。だからあの子誰?って思って。誰なのか聞きたかったんですけど、おじさんに逆らった男の子が殴られてたし、怖いからずっとじっとしてたんです。でも、そうしたら声が聞こえてきたの。『私は逃げません。約束します。その代わりに、生徒の方たちを解放してあげてください』って、金髪の女の子が言ってました。そしたら、急に、子供はちょっとずつ出て行っていいっておじさんに言われて……」
「そ、それは!それは、この写真の子だろうか?」
同席していたパッケージの兄が、ホワイトボードに貼ってあったものと同じ写真を女の子に見せた。
「は、はい。顔ははっきり見えませんでしたけど、多分この子です。小さくて、金髪に、緑のワンピースを着ていました」
「……妹、です」
パッケージの兄は妹の絶望的な状況を理解すると、言葉を失い、ガタン! と脱力しながらなんとか着席する。
兵士らから、声をあげなくとも動揺する空気が部屋中から伝わってきていた。
(……まじかよ。子供が人質の交渉したってことか?)
しかし、絶望の淵に立たされていた周囲とは打って変わって、ただ黙って話を聞いていただけのマイロは驚いていた。
「……その子は怪我とかしていたかな?」
「ううん。体は元気そうに見えました」
答えを聞いた兵士の顔に、目に見える安堵が浮かんだ。
他にもいる人質の安否よりも先に状態を確認していたところを見ると、パッケージは極めて重要な存在らしい。
(……10歳の子が。すごいな)
たった一言で、武装犯の態度を変えさせるだなんて、のんびりと贅沢を享受して生きてきたただのお嬢様では、きっとそんなことはできないはずだ。
(俺には到底できない芸当だ)
一学年分の人質と天秤にかけても揺るがないほどの価値がある少女――、それはマイロの好奇心を刺激するには十分な存在。
(いったい、どんな子なんだろう)
まだ見ぬ少女に、心のフォーカスが揺れ動くのをマイロは確かに感じていた。
「――マスコミ対策はいつまで持つ?」
指揮官がぼそりと呟いた声がかすかに聞こえた。
「――今日中が限界だと思われます」
腰ぎんちゃくのような男が答える。
「そうか」と静かに返した。
モニター越しに校内の様子を見つめる兵士たちは、固唾をのんで指揮官の指示を待った。
そしてすぐに指揮官の深く囁くような声が部屋に響いた。
「……奴らの隙をつく。要求通りに逃走用のヘリを用意しろ。ただし、ほとんどの人質が解放されるタイミングまで奴らをじらすんだ」
言葉の端々には、慎重な駆け引きと大胆な判断が同居していた。交渉は続いているが、相手は何をしでかすか分からない武装集団。
だが、彼らにも「逆らえない何か」がある。それが、『パッケージ』だ。
指揮官は、机の上に置かれた資料ファイルを睨みつけるように一瞥し、再び顔を上げる。その眼光は鋭く、部隊の全員を射抜いた。
「パッケージからの要求を呑むということは、やつらもパッケージをないがしろにできない何らかの理由があるはず。なんとでもパッケージを――いいや、人質全員、無傷で保護せよ!」
その瞬間、空気が一変する。緊張が一気に臨戦態勢へと切り替わり、兵士たちは無言で頷き、
「サー!」
と、一斉に指揮所を震わせた。