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第34話「みじめ」

 今日は、城の中庭にある温泉の掃除の担当になっていた。

 石造りの建物に入り、脱衣所から掃除をしていった。

 誰もいない中、植物の繊維を束ねた専用のほうきを持ち、動かしてゆく。さほど大きくはないため、一人で掃除は可能だ。


 温泉――。

 二十年前から急にこのあたりでも湧くようになったのは、火山活動の活発化と関係があるとみられている。城の者たちがありがたがっているここのお湯は、この大地の断末魔の一部だったということになる。


 手を動かしながらも、つい考えてしまう。


 昨日は、いったいどれくらいの時間、族長と話していたのだろうか。

 あんなに長い通信をおこなったのは初めてだった。

 盗み聞きなどをされた可能性はごく低いと思われるが、私も通常の精神状態ではなかったため、今思うと、途中から周囲を警戒することも忘れていた。

 それくらい、族長の話は衝撃的なものであった。


「あっ、ケイだ」

「おや? バク」


 突然、バクが現れた。

 無邪気で明るい顔。純粋な黒い瞳。いつもは微笑ましさとともにスッと体の中に入ってくるものが、今日は体の奥に刺さってくるような感じがした。

 彼は、着替えを手に持っていた。


「今日はお休みでしたか」

「うん。あまり休みたくないけど、俺だけ休み。たまに休んだほうが筋肉の発達がよくなるって、バロンに言われたんだよね。あれだけムキムキな人に言われると言い返せないんで、言うとおりにしたよ」


 骨格によるところもあるだろうから、バクはどんなに鍛えても十代のうちにバロンのような体格になることはないと思う。が、たまに休んだほうが体が仕上がりやすいというのは狼人族でも言われていること。間違いではないのだろう。


「把握しておらず、すみません。掃除は後回しにします。どうぞ」

「言ってなかった俺が悪いって。昨日いろいろあってさ。そっちに行けなかったからね」


 この笑顔を見ると、族長に対して提案したことを本当に実行できるのかどうか。そして、それが叶わないとわかったときに、族長命令を完遂できるのかどうか。


 自信はまるでない。

 ただ、私はやらなければならない立場だ。


「……ん? どうしたの?」


 生まれて今まで、こんなに何かを躊躇したことはない。

 心の準備ができているのかと言われれば、まったくできていないと思う。だが、おそらくその準備ができることは永遠にない気さえする。

 時が経てば経つほど難しくなっていく気もした。先延ばしにしたとしても、きっと心の状況は悪くなるだけだろう。


「バク、少し私から話があるのですが。よいでしょうか?」


 まるで自分の口で話していないような感覚すらあったが、なんとか切り出すことはできた。




 私は部屋で話そうかと思っていたのだが、本人の強い希望により、いつぞやのようにこの浴場の水際で膝枕をしながら……ということになった。


 バクが使用するときは基本的に誰もこの浴場に入れないことになっているものの、これから話す内容を考えれば、念のために外の気配には気をつけなければならない。

 私は気を引き締め、脱衣所で彼の怪我をチェックし、そして二人で浴場へ入った。


「はー、気持ちいい」

「このお湯は、城の者みな絶賛していますね」

「まあ、お湯もいいよね」

「お湯“も”?」

「あー! また余計なこと言っちゃった。油断するとこれだ」

「もう慣れたので大丈夫ですよ」


 また彼が顔を紅潮させている。

 前よりは多少改善されているものの、自分で膝枕を希望しておきながら恥ずかしがるというのはいかがなものか。


 なお、形もいつぞやのときとまったく同じである。

 私はバクのすぐ後ろにつき、自身の太ももが水際のラインに沿うような向きで横坐りしている。彼は仰向けで、胸から下はお湯に浸からせている状態で、私の太ももに頭を預けていた。


 彼は前日の訓練でまた打撲を作っていたらしい。

 脱衣所で確認したときにはところどころ体が青くなっていたことを確認したが、骨折などの深刻な怪我はないようだった。


「すぐに回復魔法をかけたいところですが、かけるとあなたは寝てしまうので、話が終わってからでもよいでしょうか」

「もちろん! いつも寝ちゃうのも、もったいないんでなんとかしたいと思ってるんだけどさ、なんか意識が落ちちゃうんだよなあ」

「それも慣れているので、変なところで努力しなくて大丈夫です」


 彼のそういうところに突っ込むのも、いつものような楽しさを感じない。それどころか、モヤっとした何かが頭と胸に残る感じがした。

 自分でもよくわからないが、おそらくは申し訳ないという感情に近いのだろう。


 一つ、軽く深呼吸した。

 そして、途中で少し驚かせることを申し上げるかもしれませんがご了承ください――と前置きして、話に入り始めた。


「バクは……この国に、いいように使われている、と思ったことはありませんか」

「へぇっ? 突然どうしたのさあ」


 彼の黒い瞳に、わかりやすく困惑の光が灯った。


「初陣での功は、まぐれだとおっしゃっていましたよね」

「うん、たぶんね。わけがわからないまま敵の偉い人を討ち取って、わけがわからないまま帰還した感じ? なんかあのときは必死すぎて自分が自分じゃないような気がしたし、あのときと同じくらいのことはあれから一度もできてないから、まぐれだと思うよ」


 でも、また軍がピンチになることはあると思うから、そのときにはまた同じようなことができるように、頑張って訓練してるよ。期待してて――彼はそう言って、お湯の中から右腕を出し、力こぶを作る。

 と、同時に「あっ、いてて」と顔をしかめた。青あざがあるところだったため、力を入れると痛みが走るようだ。


「今回の戦いであらためて感じましたが、あなたは言ってみれば普通の子供でしょう。あなたがよく努力して頑張って結果を出しているので問題視している人は少ないようですが……初陣でたまたま目立つ戦果を挙げた子に英雄の称号を与えて重責を背負わせ、士気高揚のために利用し続けるというのは、よく考えればとんでもないことのように思います」

「お? もしかしてケイ、俺のこと心配してくれてる? うれしいなあ。でも大丈夫だよ。今まで『いいように使われてしんどい』なんて思ったことないから。陛下と宰相から言われたんだ、『帝国は危機に瀕している』って。俺は国のためなら、帝国民のためなら、正義の戦いのためなら、いくらでも頑張れるよ。こんな俺でよければどんどん利用してくれって感じ!」


 ニコッと笑う若き英雄様の顔は、採光窓から入る午前の若々しい光や、それを反射してきらめく水面に負けないくらい、とてもまぶしく見えた。

 そして同時に、それをこれから汚しにかかる自分が、心底みじめに思えた。

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