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第36話「嫌な予感がする」

 あれから族長へ連絡をしない、いや、連絡ができない日々が続いた。


 バクへの説得が不可能であると判断した以上、彼を暗殺し、その報告をしたうえではるか南の狼人族の地へ戻らなければならない。それが族長命令。

 族長命令は、絶対。


 回復魔法をかけると彼は深い眠りに落ちるため、実行することは簡単。刃物すら必要ない。首を絞めるだけでいい。逃げるのも簡単。狼の姿にでもなって去ればよいだけのことだ。

 それだけで密偵としての最後の仕事は完了。めでたく故郷へと帰ることができる。


 重々承知しているはずなのだが、心も体もそれを拒絶していた。

 魔法をかけるために彼の額に触れることはできた。そしておそらくいつでもできる。なのに首には触れることすらできない。


 ただ、族長から連絡をしてくるということも今のところはない。

 前回の交信で口論に近い状態となったため、さすがに私がすんなりと事を運べるとは考えていないのだろう。猶予期間といったところか。


 その状態はいつまで続くかはわからない。

 最終的に族長に従わないという場合は、私は反逆者となる可能性が濃厚。


 当然、私の代わりに新たな刺客が送り込まれることになるだろう。

 もちろん殺害対象はバクだけでなく私もとなり、私の今生は終了ということになる。いつ来るかわからぬ刺客を相手に生き延び続けることは現実的ではない。


 いや、その前に。反逆者の烙印を押されること自体が、狼人族として生きてきた自分としては最も恐ろしく、最も屈辱的で、かつ最も許容しがたい……

 ……はずなのだが。

 もし本当にそうならば、さっさとバクを殺害すればよかった話のはず。


 それができなかったということは――?




 * * *




 いたずらに日にちだけが経過してしまった。

 帝国軍は次の遠征が決まり、いつもどおりに大神殿前の広場で出陣前の儀式がおこなわれ、戦地へと旅立っていった。


 なお出陣前の儀式では、バクはいつものように演台にのぼり、帝都民を前に演説をしていた。

 そしてこれまたいつものように、大歓声を浴び、軍の先頭に立って出発していった。


 バクの根回しにより軍に同行しないことを勝手に決められてしまっていた私は、まもなくヒナがかえると思われるペンギンとともに帝都に残ることになっていた。

 したがって、帝国軍の出発を他の召使たちと一緒に見送っている。


 演台に立って演説をしていた、バクの姿。

 きらびやかな胸当ても、子供らしい幼さがある魅力的な顔も、本人いわく「英雄の称号をもらったときにめちゃくちゃ練習させられた」という堂々とした姿勢も、終了後に掲げられた剣の高さと輝きも、以前の出陣式と変わらなかった。


 ……いや。

 「変わらなかった」ではない。

 「帝国民の目には、そう映っただろう」と言うべきか。

 私の目には、彼の表情や仕草に、拭いきれないかげりがまとわりついているように見えたのだ。


 私と目が合ったとき、彼の瞳の奥に揺らいだものを見た気がしたような?

 演説中に、目をほんのわずかに伏せる仕草があったような?

 剣を掲げた手に、ほんのわずかな迷いがあったような?


 確信まではない。

 勘違いかもしれない。

 私の余計な言葉があの太陽のような魂に影を落としてしまったかもしれない、という心の中の引っかかりが、そう思わせていただけなのかもしれない。

 そもそも私は種族が違う。人間のことは猛勉強したつもりではあるが、その機微を正確に読み取れている前提で考察をすることは、ただの思い上がりなのかもしれない。


 ただ一つ、確実なのは、私の心は「勘違いであってくれ」と切に願ってしまっていることだ。




 城の掃除をするにも、ほうきを持つ手がどこか覚束ない。


 口数も無意識のうちに減ってしまっていたようだ。朝にはペンギンの食事をうっかり無言で出してしまい、「言葉を失くしたか? 言葉は世界最高の発明品だぞ。大事にせい」と説教されてしまっていた。


 頭の中では、以前にあった野盗との戦いや、前回の戦であった爬虫人フィルーズとの戦いで見せていたバクの危うさが、繰り返し再生されていた。


「戦場はオーク族の拠点。前みたいに遠くないよ。すぐ帰ってくるから」

「今度は夜襲にもちゃんと備えるから、心配くて大丈夫」

「ここのところの猛訓練でちょっとは剣が上達したと思う。がんばってくるよ!」


 出陣の前に私の部屋まで来てくれたとき、彼はそう言っていた。

 だが嫌な予感は消えない。


 彼は普通の子供。

 余人をもって代えがたい人物。だが普通の子供。


 本当に、大丈夫なのだろうか?




 その予感は、現実のものとなった。

 帝国軍が敗れ、オーク族の砦の攻略に失敗したという知らせが届いたのである。

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